侵略
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映画については「侵略 (映画)」をご覧ください。

侵略(しんりゃく、(: aggression)とは、直接武力をもって他国の領域侵入したり、攻撃すること、一国が他国に対する要求を貫徹するために武力行使によって事態を変更せしめること、他国に攻め入って土地や財物を奪い取ること、他国の主権を侵害すること、などを意味する[1]1974年国連が「国家による他の国家の主権、領土保全もしくは政治的独立に対する武力の行使」または「国際連合の憲章と両立しないその他の方法による武力の行使」と定義した[2]。しかし、侵略側は自己の行動を否定したり、自衛勢力均衡のためと正当化したり、被侵略側に責任転嫁することがあるので、侵略行為の認定は困難であり、国際法上の定義は明確ではない[1]。また、国連安全保障理事会は、侵略国と被侵略国(自衛権行使国)を認定できるが、拒否権の発動など国際政治の情勢に左右される[1]

漢字としての「侵」は「おかす」「そこなう」を意味し、「略」は「かすめとる」「攻めとる」「奪う」の意味で[1]英語でのaggressionという語は「他人を脅迫したり、危害を加えるような語りや行動」「他者に対する脅威または力を使用する行動」を意味する一般名詞である[3]。(形容詞はaggressive)。現代の意味での「侵略 (aggression)」が使用されたのは第一次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約1919年)においてであり[1]、これに調印した大正9年当時の日本政府は「攻撃」と訳した[4]

直接武力による行動を直接侵略、ひそかに武器等を送ったり,経済的政治的圧力が高度になる場合は間接侵略ともいう[1]
侵略の定義
前史

侵略戦争に対する裁判を記録した最古のものとしては、1268年のホーエンシュタウフェン朝コッラディーノのイタリア侵攻に対するものが残されている[5]

植民地支配と侵略の意味合いの違いは、明確な区別をつけることがしばしば難しいとされてきた。この問いは、体制的かそうでないかという定義付けもされたが、厳密に区分けすることは困難であった[6]。この問題の背景には、欧米列強による植民地支配が、アフリカ大陸アジア諸国、アメリカ大陸など世界中で歴史的に行われてきたことにある。オランダは約350年にわたりインドネシアにおいて、強制的栽培制度でコーヒーなどの作物をプランテーションで栽培させた。またフランスインドシナ半島東部にて、土地没収令を敷き、農民は小作人からさらに債務奴隷へと没落した。イギリスは、インドにてムガル皇帝を廃して東インド会社を設立、綿織物で利益を上げ、その後インドにケシ栽培を強制し、大量のアヘン中国に密輸し、これをが取り締まったことを口実にアヘン戦争を仕掛け、香港租借に至った。
ヴェルサイユ条約(1919)

現代国際法上における侵略の定義については西欧国際法における国際犯罪概念の発展段階により徐々に形成されてきたものであった。今日の意味での「侵略」aggressionが使用されたのは1919年のヴェルサイユ条約においてであり[1]、231条の戦争責任条項に明記されたことを端緒とする[7][8]。連合国が被った全ての損害の責任は、aggression(攻撃、侵略)によって戦争をひきおこしたドイツおよびその同盟国の側にあると規定された[1]。The Allied and Associated Governments affirm and Germany accepts the responsibility of Germany and her allies for causing all the loss and damage to which the Allied and Associated Governments and their nationals have been subjected as a consequence of the war imposed upon them by the aggression of Germany and her allies.
連合国政府はドイツおよびその同盟国の侵略により強いられた戦争の結果、連合国政府および国民が被ったあらゆる損失と損害を生ぜしめたことに対するドイツおよびその同盟国の責任を確認し、ドイツはこれを認める。 ? 1919年ヴェルサイユ条約231条の戦争責任条項[7]

この条約に署名した大正9年当時、日本の条約文では aggression を「侵略」でなく「攻撃」と翻訳された[4]

その後、国際連盟期における1920年の国際連盟規約11条、ジュネーブ議定書ロカルノ条約(1925年)、不戦条約(1929年)などで戦争の違法化が合意されつつあったものの、侵略の定義化は非常に困難であった。オースティン・チェンバレンは侵略を定義すれば無実のものにとっては罠となり、侵略を企図する者にとっては抜け道を探すための基準となると述べ、その定義化に反対した[9]ラムゼイ・マクドナルドが「侵略の責任の帰着を判定するの能のある者は戦後五十年を経て筆を執る歴史家であって、開戦の際における政治家にあらず」と述べている[10]。その後国際軍縮会議で一応の合意が見られたのは、国際条約上の義務を無視して開戦した場合に侵略とされるということであったが、条約違反の認定で相互に意見が異なるのは当然であり、問題が完全に決着したとは言い難い情況であった[11]
リ卜ヴィノフ案

明文として侵略を定義した条約としてはソビエト連邦および周辺諸国を中心として締約された侵略の定義に関する条約(英語版)が最初のものである(1933年7月3日署名、1933年10月16日発効)。これは1933年2月6日のジュネーヴ軍縮会議でリ卜ヴィノフLitvinovは「侵略国に侵略の口実を与えないことが重要である」と演説で述べた[12]。この条約案に示された侵略の事例としては,宣戦布告の場合のほかでも、宣戦せずに他国の領土に侵攻した場合,軍隊が他国の領土に発砲した場合,他国の船や航空機を故意に攻 撃した場合,他国の許可を得ず,または許可された条件を守らずに,他国の領土に軍隊が進駐した場合,湖岸や港を封鎖した場合などが挙げられた[12]。しかしこの条約自体は東欧圏を中心とした8カ国(のち9カ国)によるものにとどまり、国際的な承認を受けたものとは言いがたいものであった。
国際連合による侵略の定義の決議
侵略の定義に関する決議詳細は「侵略の定義に関する決議」を参照

第二次世界大戦後、国際連合が発足した。朝鮮戦争に関する討議が行われている最中の1950年11月3日、ソビエト連邦代表は侵略の用件を列挙する形で侵略の定義の決議案を提出した。しかし列挙方式か、一般的抽象表現で行うかについて争いがあり、いずれの提案も成立しなかった[13]。その後たびたび侵略の定義に関する特別委員会が設置されて討議が行われたが、結論が出たのは24年後の1974年になってからであり、12月14日国際連合総会決議3314が成立した[13]

しかしこの総会決議による定義は各国に対する拘束力はなく、現在もある国家実行を侵略と認定するのは国際連合安全保障理事会に委ねられている。国連総会で侵略の定義についての一応の合意があったことは事実ではあるが、依然としてその解釈や有効性については争いがある。
国際刑事裁判所ローマ規程

2010年6月11日カンパラで開かれた国際刑事裁判所ローマ規程再検討会議において、国連総会決議3314を下地に規程独自の定義を盛り込んだ同規程の改正決議が採択された。


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