侯爵
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侯爵(こうしゃく)は、近代日本中国で用いられた爵位(五爵)の第2位。公爵の下位、伯爵の上位に相当する[1]ヨーロッパ諸国の貴族の称号の日本語訳に使われる。英語でmarquessまたはmarquisと呼ばれるヨーロッパ各国の爵位や、ドイツの爵位のFurstの訳語に充てられる。公爵と発音が同じことから、俗に字体が似ている「候」から「そうろう-こうしゃく」と呼ばれ、区別される。
日本の侯爵
華族の侯爵家

1869年(明治2年)6月17日の行政官達543号において公家と武家の最上層の大名家を「皇室の藩屏」として統合した華族身分が誕生した[2]。当初は華族内において序列を付けるような制度は存在しなかったが、当初より等級付けを求める意見があった。様々な華族等級案が提起されたが、最終的には法制局大書記官の尾崎三良と同少書記官の桜井能監1878年(明治11年)に提案した上記の古代中国の官制に由来する公侯伯子男からなる五爵制が採用された[3]

1884年(明治17年)5月頃に賞勲局総裁柳原前光らによって各家の叙爵基準となる叙爵内規が定められ[4]、従来の華族(旧華族)に加えて勲功者や臣籍降下した皇族も叙爵対象に加わり[5]、同年7月7日に発せられた華族令により、五爵制に基づく華族制度の運用が開始された[6]

侯爵は公爵に次ぐ第二位であり、叙爵内規では侯爵の叙爵基準について「旧清華家 徳川旧三家 旧大藩知事即チ現米拾五万石以上 旧琉球藩王 国家二勲功アル者」と定めていた[7]。侯爵家の数は1884年時点では24家(華族家の総数509家)、1895年には34家(同643家)、1916年時に38家(同933家)、1928年時には40家(954家)、1947年時には38家(889家)だった[8]

1889年(明治22年)の貴族院令勅令第11号)により貴族院議員の種別として華族議員が設けられ(ほかに皇族議員勅任議員がある)[9]、公侯爵は満25歳(大正14年以降は満30歳)に達すれば自動的に終身で貴族院議員に列することとなった[10]。これに対して伯爵以下は同爵者の間の連記・記名投票選挙によって当選した者のみが任期7年の貴族院議員となった[11]。また公侯爵議員が無給だったのに対し、伯爵以下の議員は有給であるという違いがあった[12]。そうした違いから公侯爵議員は伯爵以下の議員たちほど貴族院活動に熱心ではない傾向があり、本会議出席率さえ十分ではなかった[12][11]。特に現役軍人である公侯爵議員は皇族議員と同様に軍人の政治不関与の原則から貴族院に出席しないのが慣例になっていた[13][10]。しかし公侯爵全員が不熱心だったわけではなく、黒田長成侯爵、佐佐木行忠侯爵、細川護立侯爵など代表的な貴族院政治家として活躍した侯爵もいる[14]。また歴代貴族院議長伊藤博文伯爵と松平頼寿伯爵を除き全員が公侯爵であり、貴族院副議長も公侯爵が多かった。議院内の役職に家格意識が反映されるのは近世以前の序列意識に基づく「座りの良さ」のあらわれであり、これが議事運営に影響を与えるというのが貴族院の特徴の一つであった[15]。貴族院内には爵位ごとに会派が形成されていたが[12]、公侯爵は長年各派に分散していた[16]。しかし1927年(昭和2年)には近衛文麿公爵の主導で「火曜会」という公侯爵議員による院内会派が形成された[12]。これは互選がないゆえに「一番自由な立場」である世襲議員の公侯爵議員は「貴族院の自制」が必要だと考える者が多く、そのため公侯爵が結束してその影響力を大きくすることで子爵を中心とする院内最大会派の研究会を抑え込み、貴族院を「事実上の権限縮小」「貴族院は衆議院多数の支持する政府を援けて円満にその政策を遂行させてゆく」存在にすることができるという考えに立脚したものだった。近衛文麿公爵のほか、徳川家達公爵、木戸幸一侯爵、細川護立侯爵、広幡忠隆侯爵などが賛同して協力していた[17]

1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法第14条法の下の平等)において「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」と定められたことにより侯爵位を含めた華族制度は廃止された。
叙爵内規

叙爵内規により侯爵の叙爵基準は「旧清華家 徳川旧三家 旧大藩知事即チ現米拾五万石以上 旧琉球藩王 国家二勲功アル者」と定められていた[7]。具体的には以下の家が叙された。
皇族 - 当初、臣籍降下した皇族には伯爵が与えられ、後に降下の制度そのものが一時消失した。皇室典範増補以降、臣籍降下の際に原則として侯爵が授爵された。しかしこの事例は僅か3家に留まった。後に「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」を制定することによって臣籍降下を促すようになってからは、降下前に属していた宮家からまだ侯爵家が設立されていない場合(原則として最初の降下)であれば侯爵、それ以外は伯爵が授爵された。終戦までに華族となった旧皇族16家のうち7家が侯爵を授けられている。

公家 - 旧清華家。旧清華家は9家存在したが、そのうち三条家公爵となり、西園寺家徳大寺家も後に陞爵した。なので残りの大炊御門家花山院家菊亭家久我家醍醐家広幡家の6家が侯爵家だった。また中山家明治天皇外戚)は清華家には含まれないが、その功績が加味されて侯爵を与えられた。後に維新時の功績を認められた嵯峨家(正親町三条家)、中御門家および多年の軍功を認められた四条家が伯爵から陞爵し、最終的には旧公家からの侯爵家は合計10家だった。なお叙爵内規の前の案(「叙爵基準」)では大臣家も侯爵に含めていたが、大臣家は官職昇進状況が明らかに清華家のそれより平堂上のそれに近いため(平堂上も大臣を出せないわけではなかった)、最終案からは大臣家は除かれたものと考えられる[18]。しかし大臣家の嵯峨実愛は大臣家を平堂上と同じ伯爵にするとは何事と強く反発し、侯爵位を要求した[19]。これによって大臣家の扱いが変更されることはなかったのだが、嵯峨家については伯爵になってから3年半という比較的短期間で実愛の功績によって侯爵陞爵となった[20]

大名家 - 旧御三家及び旧大藩知事(現米15万石以上)。15万石以上の基準は表高内高といった米穀の生産量ではなく、税収を差す現米(現高)である点に注意を要する[21]。明治2年(1869年)2月15日に行政官が「今般、領地歳入の分御取調に付、元治元甲子より明治元戊辰迄五ヶ年平均致し(略)四月限り弁事へ差し出すべき旨、仰せいだされ候事」という沙汰を出しており、これにより各藩は元治元年(1864年)から明治元年(1868年)の5年間の平均租税収入を政府に申告した。その申告に基づき明治3年(1870年)に太政官は現米15万石以上を大藩・5万石以上を中藩・それ未満を小藩に分類した。それのことを指している。もちろんこの時点でこの分類が各大名家の爵位基準に使われることが想定されていたわけではなく、政府費用の各藩の負担の分担基準として各藩に申告させたものであり、それが1884年(明治17年)の叙爵内規の爵位基準にも流用されたものである[22]。この基準を満たしている旧大名家は15家あったが、そのうち旧薩摩藩島津家(現米31万4002石)、旧長州藩毛利家(現米23万2760石)、旧静岡藩徳川宗家(現米21万210石)の3家は当初より公爵に列したので、それ以外の旧尾張藩徳川家(現米26万9070石)、旧紀州藩徳川家(現米27万4590石)、旧広島藩浅野家(現米25万8370石)、旧岡山藩池田家(現米17万9585石)、旧鳥取藩池田家(現米18万6437石)、旧福岡藩黒田家(現米23万4250石)、旧秋田藩佐竹家(現米17万9400石)、旧佐賀藩鍋島家(現米21万3727石)、旧徳島藩蜂須賀家(現米19万3173石)、旧熊本藩細川家(現米32万9680石)、旧加賀藩前田家(現米63万6880石)、旧土佐藩山内家(現米19万3010石)の12家が該当する。


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