侯 子光(こう しこう、? - 337年)は、五胡十六国時代の人物。安定郡(現在の甘粛省川県)の出身。小秦国政権を樹立して後趙に背いた。『十六国春秋』には劉光とも記載される。 20歳にして容姿や振る舞いは美しかったという。 建武3年(337年)7月頃、侯子光は仏太子を自称すると、自らを大秦国からやって来て小秦国の王となる存在であると豪語した。また、名を李子楊[1]と改め、?県の爰赤眉
生涯
後趙の鎮西将軍石広は反乱の知らせを聞くと、李子楊討伐の兵を挙げた。李子楊はこれを迎え撃つも、敗北を喫して斬首された。
『晋書』・『十六国春秋』によると、李子楊の首からは血が流れず、10日以上が過ぎてもその顔色は生前と変わりなかったという。
参考文献
『晋書』載記第6
『資治通鑑』巻99 晋紀21
『十六国春秋』後趙録
脚注^ 『十六国春秋』には李氏とも記載される
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