侍所
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侍所(さむらいどころ)は、鎌倉幕府室町幕府において、軍事警察を担った組織。

侍所は古く「さぶらいどころ」ともいわれ、「侍(さぶら)い」、すなわち貴人の傍に控え、家政を取り仕切ったり、その身辺を警護する従者の詰所という意味であった。平安時代末期には親王内親王摂関家の邸宅に置かれ、家人東国武士などが常駐した。
鎌倉幕府の職務

鎌倉幕府は将軍源頼朝の下に、侍所・公文所(のち、政所)・問注所の三つの機構を置き、侍所は侍(御家人)を統率する機構で、今で言う、警察の役割・戦時における軍令司令部の役割で、軍事や警備、罪人の収監などを行った。

所司(しょし)または侍所司(さむらいどころのつかさ)と呼ばれる役職についた有力御家人が統制し、所司の中で最高位の者は別当(べっとう)と呼ばれた。鎌倉幕府の侍所は源頼朝によって治承4年(1180年)に設置され、別当は初め和田義盛らが務めたが、和田合戦により義盛が討たれると、以後は執権北条氏が別当を兼ね、所司を北条氏家令長崎氏がほぼ世襲している。

元は平氏政権において伊藤忠清が坂東八か国の武士を統率する「侍別当」に任じられたのに対応して、和田義盛が頼朝に嘱望したとする謂われがある(『延慶本平家物語』『吾妻鏡』治承4年11月17日条)。この話が事実とするならば、貴族の家政機関である侍所とは異なる流れの中で成立した可能性が高い[1]。その後、頼朝の地位上昇と共に家政機関としての侍所の要素も加わるようになり、建久年間には別当である和田義盛が家政機関の部分を含めた軍事全般を、所司である梶原景時が鎌倉幕府の組織の根幹とも言える御家人の統制を行うようになる[2]。しかし、違う流れを汲む2つの組織の結合とも言える侍所の組織は不完全なものであり、侍所の職掌の整理が図られて内部の分業が進むのは、景時・義盛が失脚する建保6年(1218年)以降のこととなった[3]
室町幕府の職務

建武3年(1336年)、鎌倉幕府の組織に倣い政所(まんどころ)、問注所とともに設置される。初期の室町幕府は初代将軍足利尊氏と実弟の直義の2頭体制であったが、侍所頭人は足利家執事の高師直の兄にあたる高師泰であることから、侍所は将軍直轄機関であったと考えられている。

鎌倉幕府と同じく御家人や武士の統率が主な職務であり、検断所務沙汰関係などは附属された検断方において行われていたが、徐々に侍所に移管していく。2代将軍足利義詮の時代には、検非違使庁の職務が侍所へ移り、山城全体の治安維持を行う市中警察権や徴税権を掌握している。3代将軍足利義満の時代には山城守護が別に置かれ、侍所は純粋に京都を室町殿直轄領として管轄する機関となる。応永5年(1398年)からは、赤松氏一色氏京極氏山名氏が交代で所司を務め、所司の家臣が所司代を務める様になり、これらの四氏は四職(ししき)と呼ばれた。

所司または頭人(とうにん)などと呼ばれる役職が統率し、所司代(しょしだい)が所司を補佐した。侍所の軍事力は所司を務める大名の兵力に依存するところが大きく、実際には所司の重臣が任じられた所司代がその指揮にあたった。土一揆の鎮圧など大規模な軍事力を要する場合には他の大名や権門の協力を仰いだ[4]。実務処理は奉行人が行い、下級役人として小舎人、雑色などが編成された。他に事務方として開闔(かいこう)が置かれ、監察役である目附や取調官に相当する寄人(よりうど)などがいた。

しかし、室町末期から戦国時代にかけては所司・所司代は置かれず、幕府奉行人である松田氏か飯尾氏のいずれかが開闔として所司・所司代の代わりに侍所の指揮を執った。開闔は侍所の責任者として在京が義務付けられ、京都の治安維持や禁獄の管理、将軍や他の権門による検断に関する助言などを行った。また、開闔は室町中期以降、京都周辺の地侍や腕に自信がある浮浪者などを傘下に加えて独自の軍事力を持つようになり、応仁の乱以降、所司の軍事力による支援が期待できなくなると、開闔の被官が他の侍所の職員とともに治安維持に従事した。また、開闔の軍事力はそのまま足利将軍家の軍事力の一翼を担っており、当時の記録[5]よりおよそ200-300人程度が動員できたと推定される[6]
侍所頭人

就任者在任期間
三浦貞連
1336年
佐々木仲親1336年
高師泰1336年
三浦高継1337年
南宗継1338年 - 1339年
細川和氏1340年
細川顕氏1340年 - 1344年
仁木義長1344年


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