佳那晃子
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かな あきこ
佳那 晃子
本名関田 祐子
別名義大関 優子
生年月日 (1956-03-08)
1956年3月8日(68歳)
出生地 日本東京都八王子市
身長158 cm
血液型O型
職業女優
ジャンル映画テレビドラマ演劇
活動期間1974年 - 2013年
配偶者源高志
事務所オフィスPSC
主な作品
テレビドラマ
金曜日の妻たちへ』映画
四季・奈津子
魔界転生
鬼龍院花子の生涯
陽暉楼
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佳那 晃子(かな あきこ、1956年3月8日[1] - )は、日本女優東京都[1]八王子市出身[2]。本名、関田 祐子[3]。旧芸名、大関 優子。東京都立日野高等学校卒業[1]舞プロモーション[1]を経て、オフィスPSC所属。静岡県東伊豆町で病気療養中。
人物・来歴

八王子に生まれ、中学卒業まで生活していた[2]

小さい頃は虚弱体質で、朝礼でも途中で貧血を起こし倒れたり、運動会の徒競走でもビリで、週に一度は病院に通っていた[2]小児麻痺小児リュウマチと診断され、3日に一度は注射のため通院する日々もあったが、小学5年生辺りから回復して、成績も体力もよくなかったのが、徒競走でも一等、成績もあがって優等生になった[2]

父が画家で中学の美術の先生をしていたこともあり、小学生のころから絵を書くのが好きで、絵の成績だけはよかったが、「父親が絵の先生だからうまいのは当たり前」といわれるのが気に入らず、中学に入ってからは授業以外で絵を書くこともなかったが、都立日野高校に進学してから、「自分が絵がうまく描けるのと父親は関係ない」と開き直るようになり、高校時代は将来マンガ家になろうと思っていた[2]。父親が演劇部の顧問をしていたこともあり、芝居も好きだった。しょっちゅう学生演劇を見に連れていかれ、八王子の新制作座の芝居もよく見に行った。高校では演劇部に入るだけではなく、クラスの有志を募って同好会を作り、仲間と一緒に脚本も書いた。演劇に熱中しすぎたせいか、成績は芳しくなかった[2]

トキワ松学園女子短期大学絵画科在学中[3]、父の友人であった画家から、「テレビで新人女優を募集しているから受けたらどうか」と打診され、芝居をやるか絵を描くか悩んでいた時期だったが、冗談で応募したら[2]NTV主催のミス『水滸伝』コンテストで二位入選。これを機に芸能界入り[3]

このコンテストに審査員で参加していた主演の中村敦夫の目にとまり、中村の事務所に入り、17歳で1974年の映画『襤褸の旗』にて大関優子の芸名でデビュー[2]

19歳で中村の事務所は解散したため、新しい事務所に移るが、芸名のせいかお嬢さん役ばかり来る中、「23歳までに、日比谷界隈の映画館に私の絵のパネルを掛ける」というのが、そのころの夢であり、新事務所との約束だったこともあり、夢を実現するために現状を突破したいと思っていたとき、映画『ザ・ウーマン』の話が来た[2]。裸のシーンもあったが、女優として生まれ変わるのに、裸というのも面白いと[2]1980年公開の映画『ザ・ウーマン』より、芸名を佳那晃子に改める。この『ザ・ウーマン』の企画に参加していた小池一雄がこの芸名の名付け親になった[3]。デビュー時からはっきりした目鼻立ち・妖艶な色気・脱ぎっぷりの良さで人気を集め、『魔界転生』では病気降板した高瀬春奈の代役で細川ガラシャ役に抜擢された[4][5]

1990年放送作家源高志と結婚。源の前妻との離婚を待ってからの入籍だったため、公表はその1年半後であった。バブル崩壊後に夫の経営する会社のトラブルを発端とした多額の借金を抱え、返済のために倹約生活を送ることになった。もともと堅実な金銭感覚の持ち主だったため、返済は着実に進んでいった[6]

テレビドラマでは2時間ドラマをメインに出演し、1994年にはヘアヌード写真集『幻想』を発売。これも借金返済の足しにするという目的だった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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