作戦行動中行方不明
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作戦行動中行方不明(さくせんこうどうちゅうゆくえふめい、: missing in action,略称:MIA)または戦闘中行方不明(せんとうちゅうゆくえふめい)、行方不明兵(ゆくえふめいへい) は、戦闘中または休戦中に行方不明になった戦闘員衛生兵従軍牧師捕虜に割り当てられた死傷者の分類である。

彼らは、戦死、負傷、捕虜、処刑脱走のいずれかの可能性がある。故人の場合、明確に身元が分かる痕跡も墓もない。MIAになることは、戦時中である限り、職業上の危険であり続ける。
問題と解決法香港のスタンレー軍人墓地(英語版)に埋葬された、イギリス及び英連邦の氏名不詳の12人の兵士の墓。

1912年頃まで、軍務に就く人々には認識票が日常的に発行されなかった。ゆえに、戦死して長い間遺体が発見されなかった場合、当人が身元が分かる物を携帯していたり、衣服に身元が分かるような印を付けていない限り、遺体の身元を特定する機会はほとんどまたは全くなかった。第一次世界大戦が勃発した頃には、国が軍務に就く人々に対し身元を証すための認識票を発行し始めた。これらは通常、アルミニウムのような軽い金属で出来ていた。しかし、イギリス軍では、選ばれた金属は圧縮繊維であり、さほど耐久性があるものではなかった。認識票を身に付けることが高い利益をもたらすことが示されたものの、現代の戦争で日常的に使われた高い爆発力のある弾薬や車両による破壊で、遺体が完全に破壊されたり(全身崩壊により遺体が粉々になった)、燃やされたり、生き埋めになったりといった問題が残っていた。さらに、森林戦[1][2]、潜水艦戦(英語版)[3][4][5] 、山間部[6]や海への航空機墜落など、兵士の環境自体が行方不明になる可能性を高めていた。あるいは、管理エラーがあり、一時期に戦場埋葬された実際の場所は、「戦場の霧」のせいで判別不能あるいは忘却された可能性がある[7]。最後に、軍は敵兵が何人亡くなったか詳しく記録して残すような強い動機がなかったため、遺体は度々一時期な墓に埋葬され(場合によっては認識票を身に付けたまま)、その場所はしばしばフロメルの戦い(英語版)で忘却された集団墓地のように、見失い[8][9]、あるいは人々の記憶から消え去った。結果として、皆無でないにせよ、行方不明兵の遺体が長い間見つからない可能性があった。行方不明兵の遺体が回収され、DNA鑑定や歯科記録の参照といった方法を含む徹底的な法医学検査を行って身元が分からなかった場合、遺体は、未確認状態を示す墓に埋葬される。

20世紀後半のDNA鑑定の発展によって、戦地に展開する前に軍務に就く人々から綿棒で細胞のサンプルを収集していた場合、遺体の小さな欠片からでさえも身元照会が可能となった。行方不明者の親戚から遺伝子サンプルを採取可能ではあるが、対象者自身から直接採取する方が望ましい。戦いで、一部の兵が行方不明になり決して見つからない可能性があるのは事実である。しかし、認識票の着用や現代技術の活用で、関与する人数を相当に減らすことが可能になる。明らかな軍事的な利点に加えて、軍務に就く人々の身元を確実に判明させることで、遺族にも多大な益がもたらされる。肯定的に身元が判明されることで、喪失に折り合いがつき、真面目に生きていくことが幾分か簡単になる。そうでなければ、一部の親戚は行方不明者がまだどこかで生きていて、いつか戻ってくるかもしれないと疑うことになるかもしれない[10][11][12][13][14][15]。しかし、通常は、こうした多くの身元を判明させる方法は、民兵、傭兵、反乱軍の兵士、その他の非正規軍の兵士には使われない。
歴史
20世紀以前

紀元前480年テルモピュライの戦いに参加した一部の兵士が、行方不明になった可能性がある。もちろん、その後の何世紀にもわたって多くの戦争で行方不明兵が生じ、その人数は数え切れないほど多く、あらゆる国が戦ったほとんどの戦いが対象に含まれる。遺体が急速に腐敗して身元特定に問題が生じ、遺体から価値があるもの(持ち物や衣類など)を戦利品として持ち去ることがよく行われていたのでさらに悪化し、ただでさえ難しい身元特定がより困難になった。その後、遺体はいつも決まって集団墓地に葬られ、わずかに公式記録が残されただけであった。注目すべき例としては、19世紀半ば頃までに起こった戦いとともに、タウトンの戦い[16]百年戦争ポルトガル王セバスティアン1世が行方不明になったアルカセル・キビールの戦いイングランド内戦ナポレオン戦争[17][18]が挙げられる。クリミア戦争南北戦争普仏戦争が勃発した頃には、より一般的に個々の兵士の身元を特定するために公式に努力されるようになったが、当時は正式な認識票制度が無かったために、戦場での撤去作業中には困難だったものと思われる。それでも、例えば、ゲティスバーグの戦場から南軍の制服を着た兵士の遺体を回収した際に「身元不明の南軍兵士」と記載された墓石がある墓に埋葬したというように、認識の変化に注目すべきものがあったのは事実である。こうした姿勢の変化は、一連のジュネーヴ条約にも関係し、最初の条約が1864年に調印された。ジュネーヴ第1条約の締結によって行方不明兵の問題に特別な対処が行われたわけではないが、負傷した敵兵の人道的な扱いを明確に述べたものとして、条約の背後にある論法は影響力があった。
第一次世界大戦オワーズ・エーヌ米軍英霊墓地(英語版)にある1917年に戦死した身元不明のアメリカ兵の墓。

戦闘中に行方不明になる現象は第一次世界大戦中に特に目立ち、機械化された現代の戦争の性質により、単一の戦いでおびただしい数の死傷者が生じた。例えば、1916年のソンムの戦いでは、30万人以上の連合国軍とドイツ軍兵士が戦死した。ソンム会戦の初日(英語版)のみで、19,240人のイギリス兵士が戦死または負傷で亡くなった。それゆえに、フランスのティプヴァル・メモリアル(英語版)に、ソンムの戦いで行方不明になり発見されることなく埋葬された墓も不明のイギリス兵士72,090人の名前があるのは驚くべきことではない。同様に、ベルギーのメニン門(英語版)の記念碑では、イープル突出部(英語版)で戦死したとされる54,896人の連合国軍の行方不明兵が追悼されている。その間、ドゥオモン納骨堂(英語版)には、ヴェルダンの戦いにおける13万人のフランス、ドイツ兵の身元不明の遺骨が納められている。

21世紀においても、毎年、第一次世界大戦の西部戦線の戦場だった場所から行方不明兵の遺体が回収されている[19]。こうした発見は定期的に起き、大抵は農作業中または工事中である[20][21][22][23][24][25][26]。通常は、一人または複数の遺体が一度に回収される。しかし、より多く回収される場合があり、例えば、2009年に発掘されたフロメルの戦い(英語版)の集団墓地では、少なくとも250人の連合国軍の兵士の遺骨が見つかった[27][28][29][30]。その他の例として、2012年初頭にフランスのアルザス地方にあるカルシュパッハ(英語版)で行われた発掘では、1918年に地下シェルターにおいてイギリスの砲弾で生き埋めになり行方不明だった21人のドイツ兵の遺体が見つかった[31]。とにかく、徹底した法医学検査によって、発見された遺体の身元を特定するための努力が行われ、もし身元が特定されれば、存命中の親戚を辿る試みがなされる。しかし、得てして遺体の身元特定が不可能であり、彼らが従軍した部隊の基礎的な詳細を確定させる以外にないことがしばしばである。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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