佛光寺
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この項目では、京都市の佛光寺について説明しています。中国山西省の佛光寺(世界遺産)については「佛光寺 (山西省)」を、その他の用法については「仏光寺」をご覧ください。

佛光寺

大師堂
所在地京都府京都市下京区高倉通仏光寺下ル新開町397
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度0分2.9秒 東経135度45分43.6秒 / 北緯35.000806度 東経135.762111度 / 35.000806; 135.762111座標: 北緯35度0分2.9秒 東経135度45分43.6秒 / 北緯35.000806度 東経135.762111度 / 35.000806; 135.762111
山号渋谷山(汁谷山)
宗旨浄土真宗
宗派真宗佛光寺派
寺格本山
本尊阿弥陀如来
創建年伝・建暦2年(1212年
開山伝・親鸞
中興年元応2年(1320年
中興了源
文化財木造聖徳太子立像、紙本着色一流相承系図、木造阿弥陀如来立像ほか(重要文化財
公式サイト ⇒真宗佛光寺派 本山佛光寺
法人番号4130005001068

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大師堂門阿弥陀堂(左) 大師堂(右)鐘楼と和合所(現在はD&DEPARTMENT KYOTOのショップ)

佛光寺(ぶっこうじ)は、京都市下京区高倉通仏光寺下ル新開町にある真宗佛光寺派本山寺院山号は渋谷山(汁谷山)。本尊阿弥陀如来。京都渋谷(しぶたに)に寺基があった頃(1300年代後半 - 1400年代前半)は、同じ浄土真宗本願寺を遥かにしのぐ勢力があった。「仏光寺」と新字体で表記されることもあるが、正式表記は「佛光寺」である[1][2]
歴史

承元元年(1205年)、専修念仏は停止され、浄土真宗の宗祖とされる親鸞越後国に配流された(承元の法難)。

寺伝によると、親鸞は赦免の翌年の建暦2年(1212年)に京都に帰り、山城国山科郷に一宇を創建し、順徳天皇より聖徳太子にまつわる「興隆正法」の勅願を賜り、「興隆正法寺」と名づけた。これが後の佛光寺で、親鸞はこの寺を弟子の真仏にまかせ、その後、阿弥陀仏の本願をひろめるため関東行化に旅立ったとされる。しかし、親鸞が山科に興正寺を建てたとするには寺伝以外の根拠に乏しく、史実としては、配流先の越後より直接関東方面へ向ったとする説が有力である[3]。なお、佛光寺の親鸞伝絵のうち古い作品には京都に帰った後に(興正寺を建立せず)伊勢神宮に参詣した後に関東に向かったとするものも存在しており、(後述の)荒木門徒の間では一旦京都に帰還した後に関東に向かったとする伝承が古くから存在していたとする見方もある[4]

佛光寺教団の直接の母体は、武蔵国の荒木門徒(第3世源海)、阿佐布門徒(第4世了海)である。第7世了源本願寺存覚の協力と時衆の影響の下、光明本尊・絵系図・名帳などの媒体を用いて布教活動に力を入れ、精力的に西国の布教をおこなう。結果、畿内以西の真宗念仏宣布の根本法城となった。これに対して本願寺第3世法主覚如は、建武4年(1337年)に『改邪抄』を著し、絵系図などを真宗にあらざるものと批判する。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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