余部橋梁
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余部橋梁(現橋梁)

基本情報
日本
所在地兵庫県美方郡香美町香住区余部
交差物件長谷川
設計者ジェイアール西日本コンサルタンツ(技師長 北後征雄)[1]
施工者清水建設錢高組特定建設工事共同企業体
建設2007年3月8日 - 2011年2月24日[2]
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度38分58.9秒 東経134度33分37秒 / 北緯35.649694度 東経134.56028度 / 35.649694; 134.56028座標: 北緯35度38分58.9秒 東経134度33分37秒 / 北緯35.649694度 東経134.56028度 / 35.649694; 134.56028
構造諸元
形式エクストラドーズド橋
材料プレストレスト・コンクリート
全長310.6 m[3]
幅7.25 m[3]
高さ41.5 m[4]
最大支間長82.5 m[3]
地図
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関連項目
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式
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余部橋梁(あまるべきょうりょう)は、兵庫県美方郡香美町香住区(旧・城崎郡香住町)余部の、西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線鎧駅 - 餘部駅間にある橋梁単線鉄道橋)である。

余部橋梁は2代存在し、初代の旧橋梁は鋼製トレッスル橋で「余部鉄橋」の通称でも知られ[5]1912年明治45年)3月1日に開通し、2010年平成22年)7月16日夜に運用を終了した[6]。2代目の現橋梁はエクストラドーズドPC橋で、2007年3月からの架け替え工事を経て、2010年8月12日に供用が始まった[5][7]

新・旧両時代ともに、橋梁下には長谷川と国道178号が通じている[8]

新旧架け替え工事中からライブカメラが設置されており、新旧両橋梁工事の様子や列車通過の状況、余部地区の季節感がわかるようになっている[9]

最寄駅である餘部駅の裏山には展望所が設けられており、同駅ホームより小高い位置で日本海を背景に余部橋梁が一望可能なスポットであり、撮影ポイントとしても定番化していた[10]。展望所は橋梁の架け替え工事に伴って2008年(平成20年)4月11日以降一時閉鎖されていた[11]が、橋梁切替時期から供用再開を望む声が多く寄せられ、香美町の定例議会で提案が2010年9月に可決され、補修工事後2010年11月3日に供用が再開された[10][12][13]
名称・表記

JR西日本による正式名称は旧橋梁・現橋梁ともに地名と同じ「余部」を使用した「余部橋梁」である[14][15]常用漢字に含まれない「梁」については、平仮名書き、漢字書きの双方が混在している。「余部橋りょう」の書き方は鉄道の現業機関において広く使われている表記で、鉄道建造物台帳に記載されており、旧橋梁の橋桁にも記載されていた。一方「余部橋梁」の書き方も、構造物設計事務所の作成する橋梁設計図面などで見られる。

第二次世界大戦前は正字体の「餘」を使用した「餘部橋梁」表記が一貫して用いられていた[16]

旧橋梁の別称・愛称は前述のように「余部鉄橋」で、これは古くから地元で使われており、使用される範囲も地元の観光パンフレットのほか、大半の地図でも記されるなど広範囲にわたって使用された[14]。かつては「余部陸橋」[14]や「余部高架橋」[16]の表記・呼称も使用されていた。

新橋梁の別称・愛称は、正式名称に沿い便宜的に「新」を入れた形で「新余部橋梁」「余部新橋梁」「余部新橋」、あるいは一部の鉄道ファンにて「余部鉄橋」(余部の鉄道橋の略称と解釈)などが混在して使用されている[14][15]。また、地元向けの愛称を地区住民を対象に募集中で、案が出そろうのを待って愛称を決める予定となっている[14]

隣接する駅「餘部駅」は地名の読みと同じ「あまるべ」であるが、同じ兵庫県内に姫新線余部(よべ)駅があるため、それと区別するため漢字を変更し「餘部駅」の表記にしたものである[17]

前述の要因から表記の揺れがあり、戦前にも用いられた過去があって駅名と同じ文字を用いた表記の「餘部橋梁」[18][19]や、別称・愛称と組み合わせた「餘部鉄橋」[20][21][22]も、第二次世界大戦後から現在に至るまで一部で使用されている(「餘」と「余」の字体に関しては「新字体#既存の字との衝突」も参照)。
建設の背景

余部橋梁の建設は、当時日本の国有鉄道網を管轄していた鉄道院が、日露戦争後に山陰本線の東側の区間を全通させるために、未開通のまま残されていた和田山駅 - 米子駅間を建設する際に実施された。和田山側から建設を進めた山陰東線と、米子側から建設を進めた山陰西線があり、余部橋梁を含む山陰西線香住駅 - 浜坂駅間の開通によって両者がつながり京都駅から米子駅、その先の出雲今市駅(現在の出雲市駅)までが開通することになった[23]

最後の区間となった香住駅 - 浜坂駅間は、山が海に迫る地形で海岸沿いに線路を通すことは不可能であった[24]。この区間にどのように線路を建設するかは関係した技師の間でも論争があり、米子出張所長の石丸重美は現行の案を主張し、福知山出張所長の最上慶二と橋梁技術者の古川晴一は内陸に迂回する案を主張した。石丸の案は、内陸案ではその当時の土木技術では難しい長大トンネルが必要になることを避けて、かつ最短経路を選択したもので、一方最上らの案は建設に困難が予想され、さらに建設後も海からの潮風で保守作業が困難となることが予想される長大鉄橋を回避しようとするものであった。これに対して上層部の判断により、石丸の主張する案を採用することになった[25]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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