何 ?(か ぎょう、生没年不詳)は、中国後漢末期の政治家。字は伯求。荊州南陽郡襄郷県の人。党錮を受けた党人の一人として、後漢書党錮列伝に立伝されている。 若くして洛陽に遊学し、若年にも拘らず時の名士である郭泰・賈彪と誼を通じて、太学に名を顕した。友人の虞偉高が父の仇に報いずして病に倒れた時、何?はその義に感じ入って代わりに報復してやり、その首を墓前に捧げたという逸話がある。 陳蕃・李膺が宦官との争いに敗れて誅殺されると、何?もまた彼らと親しかったことから宦官に陥れられることになった。何?が姓名を変え汝南へ逃亡したが、至るところの豪傑は皆何?を歓迎した。特に袁紹の敬慕を受けて彼と往来し、奔走の友となった。当時、党錮の難を避けて洛陽から逃れる者が多かったが、何?は逆に洛陽へ入り、袁紹の計画に従って囚われの者達を助けてやった。彼のおかげで逃れることの出来た者は甚だ多かったという。 党錮が解かれると司空府に招聘された。三公の会議が開かれるごとに何?が推薦されないことは無く、昇進を重ねた。何進が政治を執ると、智謀の士として逢紀・荀攸らと共に、腹心の役割を担った。 董卓が政権を握ると、強迫によってその長史に任じられたが、病に託けて就かなかった。[1]また、山東へ逃れた袁紹に激怒する董卓を宥め、太守の位を与えて懐柔するように進言した一人でもある[2]。同時に荀爽・王允・鄭泰・荀攸らと共に、董卓を排除する謀議を練っていたが、荀爽が間もなく死去した後、何?もまた別の罪で捕らえられ、憂憤しながら死去した[3]。 何?は曹操を見たとき、嘆じて「漢家將亡,安天下者必此人也(漢王朝はまさに滅びようとしている。天下を安んじるのは必ずやこの人だ)」と語り、また荀ケを「王佐の器(才)」と評したことでも知られる。荀ケは後に尚書令となってから、長安へ人をやって叔父荀爽の遺体を引き取り、同時に何?の遺体も荀爽の塚の傍に葬ったという。
生涯
脚注^ 『後漢書』「荀爽伝」・「鄭泰伝」・「董卓伝」では『長史何?』と記されている。また、『三国志』魏志「袁紹伝」・「荀攸伝」では議郎とされている。
^ 『三国志』「袁紹伝」では、このとき議郎の地位にあり、周・城門校尉の伍瓊達と共に袁紹と内通していたとある。
^ 『三国志』魏志「荀攸伝」では、事が発覚して荀攸と共に捕らえられ、恐怖で自殺したとする。
参考出典
『後漢書』党錮列伝第五十七 何?伝
同書竇何列伝第五十九 何進伝
同書鄭孔荀列伝第六十 荀ケ伝
同書董卓列伝第六十二
『三国志』魏書一 武帝紀
同書魏書十 荀攸伝