何応欽
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中華民国政治家何 応欽何 應欽
陳儀別影(『最新支那要人伝』1941年)
生年月日1890年4月2日
出生地 貴州省興義府興義県
(現:興義市
没年月日 (1987-10-21) 1987年10月21日(97歳没)
死没地 中華民国 台北市
出身校陸軍大学校
所属政党 中国国民党
中華民国
第3代 行政院長
在任期間1949年3月24日 - 1949年6月13日
総統代理李宗仁
中華民国
第2・4代 国防部長
在任期間1948年6月3日 - 1948年12月24日1949年5月1日 - 1949年6月13日
総統?介石李宗仁(総統代理)
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何 応欽
所属組織 国民革命軍
中華民国陸軍
軍歴1924年 - 1950年
最終階級 陸軍一級上将
指揮国民革命軍東路総指揮
第一路軍総指揮
戦闘北伐
日中戦争
国共内戦
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何 応欽
職業:政治家・軍人
各種表記
繁体字:何應欽
簡体字:何 ??
?音:He Y?ngq?n
和名表記:か おうきん
発音転記:ホー・インチン
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何 応欽(か おうきん、1890年光緒16年閏2月13日〉4月2日 - 1987年民国76年〉10月21日)は、中華民国軍人は敬之。貴州省興義府興義県泥?鎮(中国語版)の出身。本貫江西省撫州府臨川県

東京振武学校第11期、日本陸軍士官学校28期卒業。黔軍(貴州陸軍)出身で、後に孫文配下となり、国民革命軍創設に貢献した。孫の死後はかねてから親しかった?介石を支え、その片腕と評されるまでになった。軍政部長を長期にわたり務め、日中戦争末期に連合国中国戦区陸軍総司令に就任、日本の降伏受諾任務にも携わる。しかし戦後は?介石との関係が悪化して一時冷遇され、国共内戦後半に復権して国防部長行政院長も務めたが、最終的に中国共産党に敗北して台湾に逃れた。

青天白日勲章勲一等旭日大綬章バス勲章ナイト・コマンダー(KCB)受賞。
経歴
日本留学と黔軍での台頭・失脚

何其敏の子。7歳にて私塾に学ぶ。1906年光緒32年)、貴州陸軍小学堂に入学し、1909年宣統元年)、武昌陸軍第三中学に進学した。同年冬、谷正倫らと共に日本に留学し、東京振武学校第11期で学習した。このときに?介石とも知り合い、また中国同盟会に加入した。1911年(宣統3年)秋に辛亥革命が勃発すると、何応欽は帰国して上海に赴き、滬軍都督陳其美の下で革命派として活動した[1]

1913年民国2年)の第二革命(二次革命)で革命派が敗北すると、何応欽は日本に逃れ軍事の学習を再開する。1914年12月に陸軍士官学校に中国学生隊第11期として入校。同期に朱紹良賀耀組らがいた。1916年5月、陸士(第28期に相当)を卒業[2]して帰国し、黔軍(貴州陸軍)第1師歩兵第4団団長に任命される。また、「新派」[3]の指導者王文華の妹の王文湘と結婚し、何応欽自身も新派の幹部と目されるようになる。以後、貴州講武学校校長、少年貴州会主任、黔軍第5混成旅旅長、貴陽警備司令などを歴任した[1]

1920年(民国9年)11月10日、何応欽は王文華配下の同僚の谷正倫と共に王文華の指示で旧派粛清の兵変を敢行し、貴州督軍劉顕世(王文華の母方の叔父)を下野に追い込んだ(民九事変)。ところが1921年(民国10年)3月、王文華が北京政府を支持する配下の袁祖銘の刺客に上海で暗殺されてしまう。このため、王文華の委任により黔軍総司令代理を務めていた盧Zが正式に総司令となったものの、外省人だった盧Zは指導力を発揮できず、何応欽と谷正倫の間で主導権争いが展開された[1]

当初は省会たる貴陽の警察権を握る何応欽が優勢だったが、谷正倫は省外で孫文のために軍功をあげるなどして次第に軍事力を拡大、1922年(民国11年)1月には孫文から中央直轄黔軍総司令に任命される。これにより形勢は逆転し、さらに谷正倫は何応欽の配下を買収して兵変を起こさせ、ついに何応欽は貴州から駆逐されてしまった。まもなく何応欽は雲南に赴き、孫文を支持する?軍総司令顧品珍から雲南陸軍講武学校校長に起用される。ところが何応欽に怨みを抱く旧派の刺客に銃撃されて瀕死の重傷を負い、上海で療養することになった[4][5]
国民革命軍創設期の活動何応欽別影
Who's Who in China 4th ed. (1931)

1924年(民国13年)、何応欽は?介石の推薦を受けて孫文の下で大本営軍事参議に任命され、さらに廖仲トを補佐して黄埔軍官学校の創設に従事した。同学校が開校すると、軍校少将総教官に任命され、軍事教学・訓練の責任者を務める。まもなく何応欽は同学校教導第1団団長に昇進し、1925年(民国14年)1月より陳炯明討伐の第1次東征に従事、陳炯明配下の難敵の林虎を激戦の末に破った。同年3月、第1旅旅長に昇進し、さらに楊希閔劉震寰の反乱を鎮圧している。7月、国民革命軍の正式な成立と共に、何応欽は第1軍第1師師長に就任した(軍長:?介石)。10月より第2次東征に第1縦隊隊長として参戦し、11月に陳炯明の軍を殲滅、勝利を収めている。この間の活躍により、何応欽は「?介石の片腕」と評される存在にまでなった[6]

1926年(民国15年)1月、何応欽は?介石の後任として第1軍軍長に任命された。同年3月の中山艦事件でも、?介石の指示に従い軍内の中国共産党員をことごとく罷免し、さらに黄埔軍官学校教育長に就任している。同年7月からの北伐では、何応欽は東路軍総指揮として福建攻略を担当、北京政府側の福建督弁の周蔭人を撃破、12月には福州を占拠した。1927年(民国16年)1月には、浙江孫伝芳の北京政府軍を撃破、2月に杭州を占拠している[7]


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