体育
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スポーツ」とは異なります。

体育(たいいく)または身体教育(しんたいきょういく)とは、身体に関する教育を指す言葉である。スポーツとは区別される。
語源[ソースを編集]

「体育」という言葉は、1876年近藤鎮三によって「Physical Education」の訳語として使用されたのが最初とされる。当初は「身体に関する教育」として扱われ、その後、「身体之教育」から「身体教育」に、そして「身教」を経て、「体育」に至った[1]

教科名としては明治以来、体操科が用いられたが、1941年の国民学校令により体練科、戦後には体育科あるいは保健体育科に改められた。
歴史[ソースを編集]
古代[ソースを編集]

紀元前8世紀頃、アテネでは軍事目的の訓練施設としてギムナシオンがつくられた[2]。紀元前6世紀以後にはオリンピアなど4都市で開催されていた四大競技祭が興隆し、体育は軍事目的から離れて、人々は一般市民の教養としてギムナシオンに通うようになった[2]。アテネでは調和的人間の形成が理想とされ、音楽の修学とともに体育が重視された[2]

しかし、古典期後期には知識教育が重視されるようになり、音楽や体育の重要性は後退し、傭兵が急増したため一般市民の身体教育も軽視されるようになった[3]
近代[ソースを編集]

ルネサンス期にはイタリアで体育の実践的な活動が行われていたがヨーロッパ全体に普及するものではなかった[4]。しかし、啓蒙思想家たちによってギリシャ・ローマの体育思想が復活し、フランス革命や産業革命の影響も背景に、教育において体育が実践されるようになった[4]

J・B・バセドウ(1723-1790)は1774年に汎愛学院を設立し、それまでの教会支配の教育から国家支配による教育への転換を提唱し、遊び、工作、体操、野外活動など子どもの発達段階と生活経験に応じた教育内容と教育方法を取り入れた[5]。汎愛学院の教師だったC.G.ザルツマン(1744-1811)は同じ趣旨の学校をシュネッペンタールに設立し校長に就いており、そこでは専用の運動場で体育教官と補助主任が指導しながら生徒全員が能力に応じて走・跳・投・平均運動などを行う教科体育の原型がつくられた[6]。ザルツマンの学校に体育主任として着任したグーツ・ムーツ(1759-1839)は従来の包括的な身体教育ではなく、体育を教育的運動を手段とする独立した領域として理論化した人物といわれ「近代体育の創設者」と呼ばれている[7]
欧米の学校体育[ソースを編集]

学校における体育活動を学校体育という。学校体育はヨーロッパでの近代の国民国家の成立とともに絶対王政が崩れ、主権者として国民(一般市民)は国家を防衛する義務があるとの認識から、フィヒテやフランツ・ナハテガルなどによって体育の重要性が説かれるようになり近代的な国民体育(学校体育)が形成されることとなった[8]。一方、近代資本主義の発展により労働者の健康が深刻な問題となり、婦人や児童の健康の問題とあわせて新たな体育論が展開された[8]
ドイツにおける学校教育[ソースを編集]F.L.ヤーン(英語版)

ドイツではF.L.ヤーン(英語版)(F. L. Jahn、1778-1852)が「ドイツ体育(トゥルネン)の父」と呼ばれており、ギムナスティーク(Gymnastik)に代わる概念としてトゥルネン(Turnen)という概念を用いて体育教育の実践を行った[8]。F.L.ヤーンは水曜日と土曜日の午後に諸学校の生徒を集めてあらゆる身分的差別を排除したて体育活動を行いのちの体育会活動の基礎を作った[9]。トゥルネンの活動は仲間意識や国民意識の高揚を図る内容であり、ウィーン会議の後に弾圧を受け1820年に禁止されたが、3月革命の前後から活動が再開された[9]

その後、ドイツでは体育論争が起こったが、A.シュピース(1810-1858)やA.マウル(1828-1907)などの理論により学校への体育教育の導入が達成された[9]。ドイツではまず1860年頃から男子の中等学校や師範学校に体操科が導入されたが、初等学校に導入されたのは19世紀末から20世紀にかけてである[9]
アメリカにおける学校教育[ソースを編集]

アメリカ合衆国では旧植民領時代からダンスは存在したが、「体操(Gymnastic)」・「美容体操(Calisthenics)」・「運動(Exercises)」はドイツ移民によって移入された[10]

学校体操は1824年から1827年にかけてF.L.ヤーンの影響を受けた、C.フォレン、C.ベック、F.リーベルらがアメリカに移住して始まった[10]。ベックは渡米して2箇月後にはマサチューセッツ州ラウンドヒル・スクールでラテン語と体操の教師となり、1828年にはF.L.ヤーンの『ドイツ式体操術』の英訳版を出版した[10]。フォレンはハーバード大学に勤めてドイツ体操を指導し、米国最初の大学体育館の建設のきっかけとなった[10]。フォレンは1827年にハーバード大学で米国で最初の体操教師養成の指導も行っている[10]。リーベルもドイツ体操を導入した一人で1827年にアメリカに移住し、ボストン体育館に勤めて水泳教師となった[10]

体操教師養成では、ハーバード大学に続いて、1852年にミシガン州立師範学校、1859年にニューヨーク州立師範学校に体育クラスが設置された[10]

大学教育ではアマースト大学に1854年に全米で最初の体育健康学科が設立され、1859年には体育館が設置された[10]


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