佐野藩(さのはん)は、下野国安蘇郡の佐野(現在の栃木県佐野市)周辺に存在した藩。江戸時代初期には、中世以来の当地の豪族である佐野氏が3万9000石を治め、佐野城(現在の佐野市若松町)を築いて城下町を整備したが、1614年に改易された。その後1684年に譜代大名堀田氏出身の堀田正高が1万石の大名となり、佐野陣屋(現:同市植下町
)に藩庁を置いた。堀田家は10年あまりで近江国堅田藩に移されたが、1825年に堀田正敦が居所を父祖ゆかりの佐野に戻しており、佐野藩が「再興」されたとみなされる。堀田家の佐野藩は廃藩置県まで続いた。「佐野」はもともと、平安時代の荘園「佐野荘」に由来する広域地名である[1][2]。この佐野荘の地頭として根を下ろし、地域に勢力を張った豪族が佐野氏である[2]。戦国期に佐野氏は唐沢山城を拠点とし、佐野昌綱が上杉謙信をたびたび退けたことでも知られる(唐沢山城の戦い)。天正13年(1585年)に佐野宗綱が戦死すると、後継を巡り佐野家中では親北条派と反北条派との間で対立が生じ[3]、北条氏政の弟の氏忠が佐野家の家督に送り込まれると[4]、一族[注釈 2]の佐野房綱(天徳寺宝衍)らが佐野家を去るなど混乱が生じた[5]。
なお、中世に佐野荘のうちの一部が「.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}天命(てんみょう)」(のちに「天明」の表記が広がる)と呼ばれ、鋳物生産の中心地として(天明鋳物。とくに天明釜
で知られる)、また町場(天命宿)を擁する交通の要衝[注釈 3]として史料に現れる。この天命(天明)も広域地名であり、鋳物生産地である「天命」と中世天命宿の場所は一致しないとの指摘がある[7]。後述のように近世の佐野城下町は天明宿と呼ばれるが、中世天命宿との関係については同一の場所とするもの、移動して名を受け継いだものなど諸説ある[7]。佐野房綱(天徳寺宝衍)は豊臣秀吉に仕えて関東・南東北の大名の取次を務めた[5]。天正18年(1590年)の小田原合戦では豊臣軍の関東への道案内を務めるとともに[6]、唐沢山城を奪回した[6]。小田原合戦後に秀吉から佐野家当主の地位を認められて[5]本領3万9000石を安堵された[8][9]。文禄元年(1592年)、房綱は秀吉の命を受け、富田一白(知信)の子の信吉を婿養子に迎えて隠居した[5]。
佐野信吉は関ヶ原の戦いでは東軍に属して所領を保った[9][10]。信吉は、慶長7年(1602年)に居城を唐沢山城から佐野城(春日岡城)に移した[8]。これには、堅城として知られた唐沢山城の破却が命じられたためとされ[9][注釈 4]、佐野城の築城は慶長5年(1600年)に開始されたともいう[12]。佐野城の城下町として「佐野町」[2]が整備され、天明(てんみょう)(天命)宿を中心として[13]、町は碁盤の目状に整然と区画された[12]。信吉は城下町建設とともに、鋳物師を城下の金屋町に集住させた(現在の佐野市には金屋仲町・金屋下町・金吹町などの地名が残る)[14]。