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さの あさお
佐野 浅夫
1962年
本名佐野 淺雄[1]
生年月日 (1925-08-13) 1925年8月13日
没年月日 (2022-06-28) 2022年6月28日(96歳没)
出生地 日本 神奈川県横浜市(現:保土ケ谷区)
死没地 日本 京都府京都市
身長168 cm
血液型AB型
職業俳優、声優
ジャンルテレビドラマ・映画・吹き替え
活動期間1943年 - 2022年
配偶者あり(1998年に先妻と死別、2000年に再婚)
著名な家族川村晃司(継子/養子)
里見浩太朗(従甥)
佐野圭亮(族子、浩太朗の長男)
事務所アクターズセブン
主な作品
テレビドラマ
『私は貝になりたい』
『肝っ玉かあさん』シリーズ
『水戸黄門』
『大岡越前』
『ありがとう』(第2・3・4シリーズ)
『おやじ山脈』
『じゃがいも』
受賞
勲四等瑞宝章(1996年)
ペスタロッチー教育賞(2001年)
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佐野 浅夫(さの あさお、本名:佐野 淺雄〈読み同じ〉、1925年(大正14年)8月13日 - 2022年(令和4年)6月28日)は、日本の俳優・声優、童話作家、実業家。アクターズ・セブン所属。身長168cm。神奈川県横浜市(現在の区分では保土ケ谷区)出身。 実家は相模鉄道天王町駅近くの青果商[注 1]。神奈川県立横浜第三中学校卒業。中学校の同期生には松山善三がいる。 太平洋戦争下の1943年(昭和18年)、日本大学専門部芸術科(現在の芸術学部)在学中、同窓の高山象三に誘われて劇団「苦楽座」に入団したことで俳優人生を歩み出した[2]。18歳で入団した苦楽座では最年少で皆に可愛がられた。1945年、苦楽座は中国地方を慰問する移動演劇「櫻隊」に改称した。同年3月、佐野は本土決戦に備える特攻隊に応召し、劇団を離れた。丸山定夫、園井恵子、仲みどりら劇団員9人は8月6日の広島市への原子爆弾投下により後に全員が死亡し、櫻隊はこれにより壊滅した[2][3]。佐野は軍隊を抜け出して、日本の敗戦後の8月20日頃、東京大学医学部附属病院に仲を見舞った。仲間の消息を訊こうとしたが、仲はベッドに寝たきりで何も訊けず、病室を後にした。「これまでは自分だけが生き残ったことが後ろめたかった。しかし、仲間を知る人がいなくなった今こそ」と62年間の沈黙を破り、2007年8月6日(月曜日)に東京都目黒区の五百羅漢寺で仲間への思いを初めて語り追悼した。『読売新聞』2007年8月6日や『東京新聞』『毎日新聞』でも戦争体験から反戦平和を述べている[4][5]。 戦後、新協劇団を経て[6]、劇団民藝の結成に参加。1971年の内部での対立により、下條正巳、鈴木瑞穂、佐々木すみ江らと共に退団する。 TBSテレビ系列のホームドラマや時代劇に多数出演。1993年から2000年まで『水戸黄門』で3代目水戸光圀役を演じたことで特に知られる。初代東野英治郎・2代目西村晃とは一味違い、庶民的で優しく慈悲深い「泣き虫黄門様」として親しまれた。光圀役に決まった時、東野英治郎に挨拶し、初代を長く演じて分身みたいなもので、他人が演じるのは嫌だと感じているだろうと思っていたら「よかった」と喜んでもらえて、本当に嬉しかったと回想している[2]。光圀役としての出演回数は246回、太秦にある東映京都撮影所では自転車を乗り回していたという。 NHKラジオ第2放送の『お話でてこい』では、童話の朗読役として4000回を超える放送をこなした。創作童話の執筆にも取り組み、『せん爺さんの太鼓』などの著書がある。これらの功績を讃え、2001年に広島大学からペスタロッチー教育賞を授与されている。 1996年、勲四等瑞宝章を受章。 1998年に先妻・英子夫人に先立たれ、芸能活動を休止したが、2000年2月に21歳年下の育子夫人と再婚。 育子夫人と前夫(川村姓)との間の長男は大学教員、次男は競輪選手の川村晃司[7]。2代目助さん及び5代目光圀役の里見浩太朗(本名:佐野邦俊)は従甥で[8][9]、浩太朗の長男の佐野圭亮は族子にあたる。
来歴・人物