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をお願いします。(2017年6月)佐野氏
三つ巴
本姓藤原北家秀郷流足利氏支流[1]
家祖佐野基綱[2]
種別武家
士族
出身地下野国安蘇郡佐野庄[1]
主な根拠地下野国安蘇郡佐野庄
著名な人物佐野基綱、佐野秀綱
佐野豊綱、天徳寺宝衍
支流、分家後桐生氏(武家)
小見氏(武家)
田沼氏(武家)
多田氏(武家)
戸室氏(武家)
凡例 / Category:日本の氏族
佐野氏(さのし)は、平安時代末期から江戸時代初期にかけて下野国を中心に栄えた一族。 秀郷流の系統。藤姓足利氏(源姓の足利氏とは別)庶流 。足利有綱(俊綱の弟)の子で下野国安蘇郡佐野庄に土着した佐野基綱より始まる[2][3]。 本宗である藤姓足利氏当主足利忠綱が志田義広と手を組んだのに対し、基綱は早くから源頼朝に味方したため、頼朝によって藤姓足利氏の嫡流が滅亡したのちも、鎌倉幕府の御家人として勢力を維持した。 また佐野庄は庄内を流れる秋山川の上流と下流で分かれていたとみられ、上流の上佐野に分家、総領家は下流域中心に支配したとみられる。『尊卑分脈』「続群書類従」などの佐野系図でも、佐野基綱の次代から大きく国基の系統と景綱の系統に分かれており、これが分裂を示している証ともされる。江田は総領が国基系、上佐野を景綱系とする。また上佐野以外にも庶家(岩崎・小見・船越・戸室・田沼)が広がっていった。 承久3年(1222年)に発生した承久の乱では、幕府方として参加し戦功を立て、佐野太郎と七郎入道が淡路国に上皇方の旧領を得ている(「淡路国太田文」)。『栃木県史 資料編中世5』では佐野太郎を基綱とするが、『田沼町史』は年齢差があるとして国綱の時代としている。 宝治元年(1247年)、宝治合戦において三浦氏に与し、佐野左衛門尉(実綱?景綱?[7])・その子の佐野太郎(成綱?景綱の子?)・佐野小五郎(宗綱?または宗綱の子か)の3名が討死、幕法に照らして本領以外は没収されたと推測され、総領家は一時没落した。 文永9年(1272年)から正中2年(1325年)にかけて訴状などの古文書が残り、佐野安房弥太郎増綱や義綱・顕綱の名前が見える。増綱は柳田や『田沼町史』が成綱の子・船越増綱と推測しているが、後の2人は系図上に見えない。 元弘元年(1331年)9月の笠置山の戦いでは、鎌倉幕府方として佐野安房弥太郎が見える(『太平記』)。
歴史
出自
鎌倉時代
室町時代前期