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日本の政治家佐野 常民さの つねたみ
生年月日1823年2月8日
(文政5年12月28日)
出生地 日本、肥前国佐賀郡早津江村
(現・佐賀県佐賀市)
没年月日 (1902-12-07) 1902年12月7日(79歳没)
死没地 日本、東京府東京市
出身校弘道館
前職武士(佐賀藩士)
龍池会(現・日本美術協会)会頭
称号正二位
勲一等旭日桐花大綬章
伯爵
日本赤十字社名誉社員
配偶者佐野駒子
子女佐野常羽
親族下村充贇(父)
岡村昭彦(曾孫)
第8代 農商務大臣
内閣第1次松方内閣
在任期間1892年7月14日 - 1892年8月8日
枢密顧問官
在任期間1888年4月30日 - 1892年7月14日
第3代 元老院議長
在任期間1882年9月12日 - 1885年12月22日
第5代 大蔵卿
在任期間1880年2月28日 - 1881年10月21日
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佐野 常民(さの つねたみ、1823年2月8日(文政5年12月28日) - 1902年(明治35年)12月7日)は、明治期の日本の政治家[1]。日本赤十字社の創始者。官職は枢密顧問官、農商務大臣、大蔵卿、元老院議長。栄典は正二位勲一等伯爵。「佐賀の七賢人」の1人。名は栄寿、栄寿左衛門。
経歴(充贇)の5男として佐賀(肥前国佐賀郡早津江村 現・佐賀市)に生まれる。幼名は鱗三郎。1831年(天保2年)に佐賀藩医佐野常徴の養子となり、佐賀藩の前藩主・鍋島斉直から栄寿の名を授かった。佐賀藩校・弘道館に学び、1837年(天保8年)には養父のいる江戸へ遊学、古賀?庵に学ぶ。
1839年(天保10年)、佐賀に帰り、弘道館で考証学を、松尾塾で外科術を学ぶ。1842年(天保13年)、佐野家の養女・駒子と結婚する。1846年(弘化3年)、京都で広瀬元恭の時習堂に入門し、1848年(嘉永元年)には大坂の緒方洪庵の適塾で学び、さらに紀伊国で華岡青洲が開いた春林軒塾に入門する。適塾では大村益次郎ら明治維新で活躍する多くの人材と知遇を得る。 1849年(嘉永2年)、江戸で伊東玄朴の象先堂塾に入門し、塾頭となる。江戸では戸塚静海にも学んでいる。この頃に勤皇運動に傾倒。藩の知るところとなり、急遽佐賀に戻るよう命じられている。1851年(嘉永4年)、長崎に移り、家塾を開く。1853年(嘉永6年)、佐賀に帰り、佐賀藩の精煉方頭人となり、藩主・鍋島直正から「栄寿左衛門」の名を授かる。佐賀藩の精煉方に田中久重親子や石黒寛次 1870年(明治3年)3月?10月までの8か月間、兵部少丞に就任し、日本海軍の基礎創りに尽力する。しかし、増田明道ら他の海軍担当官との関係は良好とは言い難く、佐野の奮闘は空回りでしかなかった。罷免についても同僚の船越衛は同情している。1871年(明治4年)、民部省灯明台掛を受け継いだ工部省において燈台頭に就任し、洋式燈台の建設指揮にあたる(同時に工部大丞にも就任)。1872年(明治5年)、博覧会御用掛に就任し、日本の産業の近代化をめざすべく、同年3月に初の官設博覧会を湯島聖堂で開催する(湯島聖堂博覧会)。1873年(明治6年)、ウィーン万国博覧会事務副総裁に就任して、ウィーン万博に派遣される。博覧会を通じて日本の近代化に貢献し、「博覧会男」の異名を得る。通訳はアレクサンダー・フォン・シーボルトが努めた。有栖川宮熾仁親王から博愛社設立の許可を受ける佐野常民 1875年(明治8年)、元老院議官となる。1877年(明治10年)2月に西南戦争が起こり、敵味方の区別なく戦場で負傷した将兵を看護する赤十字社の知識を元に、「博愛社設立請願書」を政府に提出するが不許可となり、5月に熊本で有栖川宮熾仁親王から博愛社設立の許可を得る。
幕末動乱
明治