佐野学
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1948年

佐野 学(さの まなぶ、1892年明治25年〉2月22日 - 1953年昭和28年〉3月9日)は、日本の社会主義運動家で、昭和初期の非合法政党時代の日本共産党第二次共産党)の中央委員長。獄中から転向声明を発表し、大きな反響を呼んだ。
生涯
戦前

豊後杵築藩の侍医を勤めた佐野家に生まれる[1]

第七高等学校造士館を経て東京帝国大学法学部を卒業後は大学院で2年間、矢作栄蔵の下で農政学を学び、新人会創立に参加した。日本勧業銀行に短期間勤めた後、兄彪太の岳父後藤新平の伝手で1919年満鉄東亜経済調査局嘱託社員として勤務し、翌1920年4月、早稲田大学商学部講師となって経済学経済史を講義した(東海林太郎は佐野の教え子という)。1921年7月、論文「特殊部落民解放論」(雑誌『解放』所収)を書いた[2]

1922年7月、荒畑寒村の勧誘で日本共産党(第一次共産党)に入党。翌年2月の党大会(市川大会)で執行委員・国際幹事に選出されたが、同年5月末、第一次共産党事件(6月5日)による検挙を避けソ連に亡命した。その際に後藤新平は、佐野の亡命に関する情報を、後藤との日ソ国交交渉のために来日していたアドリフ・ヨッフェ経由でソ連に流し、亡命を援助した[3]。佐野が第一次共産党事件の検挙を免れたことについては、当時から、後藤が援助したのではないかと、政友会が議会で第2次山本内閣内務大臣の後藤を追及していた[4]1925年7月に帰国して共産党を再建(第二次共産党)。1925年1月の日ソ基本条約調印によりソ連大使館が開設され、そこに商務官の肩書きで派遣されていたコミンテルン代表のカール・ヤンソンから活動資金を得て、『無産者新聞』の主筆を務めた。1926年3月、第一次共産党事件で禁錮10ヶ月の判決を受け、同年末まで下獄。1927年11月、佐野の著作『十一月革命の意義』(希望閣)が発売禁止処分を受ける[5]。同年12月に中央委員長に就任、労働運動出身の鍋山貞親とともに党を指導した。

1928年三・一五事件の前日に日本を発って検挙を免れて訪ソし[6]、コミンテルン第6回大会に日本共産党首席代表として出席、コミンテルン常任執行委員に選任された。モスクワでは日本史の講師としてモスクワ東洋学院の教壇にも立っている。その後、のちのソ連外相モロトフと共にオルグとしてドイツ共産党に派遣され、ベルリンを経て、ロッテルダムからインドに向かい、インド共産党の内紛を調停し、1万ドルの資金を渡した。1929年3月14日に中国・上海に到着する。中国共産党の周恩来に会い、彼の紹介でコミンテルン代表となっていたリヒャルト・ゾルゲに会う。後藤新平死去直後の6月に上海で検挙、1932年東京地裁治安維持法違反により無期懲役の判決を受け、市ヶ谷刑務所に収監された[7]

1933年、鍋山とともに獄中から転向声明「共同被告同志に告ぐる書」を出した。これはソ連の指導を受けて共産主義運動を行うのは誤りであり、コミンテルンからの分離や満州事変の肯定、天皇制の受容、日本を中心とする一国社会主義の実現[8]を目指すという内容であった。1934年5月、上告を取り下げて東京控訴院判決(懲役15年)が確定。他の転向者と同様に早期に出獄することが予想されたが、1943年10月まで収監は続いた[9][10]
戦後

第二次世界大戦終戦後、風間丈吉ら転向者とともに労農前衛党を結成、鍋山らとは民社党の母体となる民主社会主義連盟の創設に参加し、理事を務めた。また、早稲田大学商学部教授などを務め、反ソ連・反共的な立場で『唯物史観批判』(1948年)などを著した。墓所は小平霊園(17-9-30)。
系譜・親族

佐野家は代々杵築藩医だった[11]

始祖・佐野徳安 (1603-1668) - 佐野家始祖[11]


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