佐野元春
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佐野 元春
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Lion

MOTO

棟梁

Holland Rose

生誕 (1956-03-13)
1956年3月13日(68歳)
出身地 日本東京都台東区
学歴立教大学社会学部
ジャンル

ロック[1][2]

ヒップホップ[2]

ポップス[2]

ロックンロール[2]

職業

ミュージシャン

シンガーソングライター

ギタリスト

音楽プロデューサー

ラジオDJ

詩人

担当楽器

ボーカル

ギター

ピアノ

ブルースハープ

タンバリン

活動期間1980年 -
レーベル

EPIC・ソニー

M's Factory

GO4 Records

Daisy Music

共同作業者

伊藤銀次[注 1]

大村雅朗

THE HEARTLAND

大滝詠一

杉真理

The Hobo King Band

東京スカパラダイスオーケストラ

山本拓夫

Melodie Sexton

BLACK BOTTOM BRASS BAND

ジョン・サイモン

佐藤奈々子

公式サイトMoto's Web Server

佐野 元春(さの もとはる、1956年3月13日[3] - )は、日本ミュージシャンシンガーソングライター東京都出身。

1980年に、シングル『アンジェリーナ』でデビュー。詩人としてのメッセージを内包した歌詞、多様なリズムとアレンジ、ラップスポークン・ワーズなどの手法を実践。さまざまなジャンルの音楽を折衷させた曲を数多く発表して作品の商業的ヒットに関係なく高い評価を得ている。現在は独立系レーベル「Daisy Music」を主宰し、インターネットを通じた音楽活動等でも先駆的な試みを続けている。
経歴.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この節には、過剰に詳細な記述が含まれているおそれがあります。百科事典に相応しくない内容の増大は歓迎されません。内容の整理ノートで検討しています。(2013年7月)

デビュー以前

東京都千代田区神田生まれ(出身は台東区浅草寺に近い下町[4])。当時の家族構成は本人、両親、妹が一人。父は会社の経営者で、母は元新劇女優で青山でジャズ喫茶を運営[5]。少年時代は漫画家に憧れ、手塚治虫のアトリエを訪れたり、自身が描いた漫画を雑誌に投稿しようとしたこともあったが、徹夜で書いた漫画を母に破り捨てられたことがきっかけで、急速に漫画から音楽に関心が移っていく[6]

中野区立第四中学校入学前後に、友人からトランジスタ・ラジオをもらい、HOT100系のポップスやブリティッシュ・インヴェイジョン系のロックに傾倒[7]。中学1年の夏にザ・フーピート・タウンゼントのギター姿に憧れ、のちにアルバイトで資金を貯めてギターを購入[8]。この時期に詩にもはまり、ランボーマラルメなど愛読。中学2年の初夏にヘルマン・ヘッセの「赤いブナの木」にメロディを付けたものが初の自作曲になる。

立教高等学校(現・立教新座高等学校)1年の夏にボブ・ディランを知り、強い影響を受ける。ディランが影響を受けた文学を探っているうちにジャック・ケルアックを知り、ビート・ジェネレーションに傾倒。15の時の3大ヒーローはボブ・ディラン、J・D・サリンジャー、ジャック・ケルアックだったという。高校2年になってようやく音楽部に入部、ピアノを始める。この頃、吉祥寺の「ジョージ組」なるバイク集団に所属[8]、この時期に無謀運転で2回交通事故を起こしている[9]。高校3年の7月、実家の引っ越しに同行せず一人暮らしを始め、夏休みに横浜で出会ったモダン・ダンサーに強い影響を受ける[8]。同年12月、音楽部が母体のバンド「バックレイン元春セクション」を結成。結成当時は5人編成だったが、まもなく同級生の妹であるMANNAが加入し、6人編成になる[8]

なお、学生時代に制作された楽曲のいくつかは[注 2]プロになってから正式に発表されている。

1974年4月に立教大学社会学部に入学。バックレイン元春セクションの活動は続き、初夏にヤマハポピュラーソングコンテストに応募する際にホーンセクションが4人加入。ボーカル・ピアノ(佐野)、キーボード(MANNA)、ツインギター、ドラム、ベース、ホーンセクションという10人編成の大所帯バンドになる[8]。ポプコンでは「Bye Bye C-Boy」を歌い杉真理らを抑えて関東・甲信越地区代表になるが10月の本選会では無冠で、同時にバンドの維持が不可能になったために解散(一説には主催者を誹謗する発言をしたためにノミネートから外されたと言われている)。同年11月に慶應義塾大学の学園祭のミニコンサートに出演した際に知り合った佐藤奈々子に、ボブ・ディランを聴かせるなどの音楽的教育を施す。この時期に全くの別メンバーでバックレイン元春セクションを再度立ち上げようとしたが、ハイ・ファイ・セットにドラムとベースを引き抜かれた[8]ことをきっかけに自然消滅し、翌1975年冬からは佐藤と共に音楽活動を始める。同年末に佐藤が大学主催の女性シンガーソングライターのコンテストに出場した際に「綱渡り」という曲を共作し、翌1976年3月に優秀賞を受賞[10]。同年秋に佐藤のデビューが決まってからは自身の音楽活動を行う[8]。1977年、佐藤奈々子のアルバム『Funny Walkin'』、『Sweet Swingin'』にも参加。この時期に佐藤の所属事務所の紹介で小坂忠と知り合い、CM音楽の録音などを手伝う[8]

1978年に当時使用していたスタジオのエンジニアの勧めで、再びヤマハポピュラーソングコンテストに出場。「Do What You Like-勝手にしなよ」を歌い、関東・甲信越地区代表になり、5月の本選会では優秀曲賞を受賞。しかし、数あるデビューの誘いを断って、生活費・学費を稼ぐため広告代理店に就職を決める。1979年に立教大学を卒業。会社員時代は真野響子のラジオ番組の制作などを担当。1979年秋、アメリカに取材旅行に出向き現地のアーティストらにインタビューを行う。サンフランシスコで出会ったミュージシャンとの交流するなかで「自分は何者になりたかったのか」と自問自答し、再びミュージシャンになることを志す。そして帰国直後に退社[11]。以前から佐野の才能を認め、プロデビューを促していたEPIC・ソニーのプロデューサー小坂洋二の勧誘を受諾してデビューが決まる。同年末にヤングジャパンと契約。
デビュー直後

1980年2月からレコーディングに入り、そこで伊藤銀次と知り合う。同年3月21日にシングル「アンジェリーナ」(EPIC・ソニー)でデビュー。同年4月7日から始まった音楽番組『ファイティング80's』(TVK)のレギュラーに抜擢される(デビュー後の初ライブはこの番組で、日本電子工学院ホールにて収録)。同年4月21日にアルバム『BACK TO THE STREET』を発表。6月から横浜舶来屋で定期的に、7月からルイードで月一で『ファイティング80's』のバックバンドとともにライブを始める。8月にマネージャーが交代したことを機に、ヤングジャパン所属ミュージシャンの前座(アリス岸田智史ばんばひろふみなど)の仕事が増える[8]。10月6日のワンマン・コンサート(横浜教育会館)の打ち合わせの際にバックバンドの名前を「THE HEARTLAND」に決定[8]。同年末に沢田研二のアルバム『G.S.I LOVE YOU』に楽曲提供したことを皮切りに他ミュージシャンへの楽曲提供も幅広く行うようになる[8]

1981年4月から『サウンドストリート』(NHK-FM)の月曜日担当になり、同番組の枠で『元春レイディオ・ショー』を開始。同年6月にシングル「SOMEDAY」を発表。同時期に伊藤を通じて交流を始めることとなる大瀧詠一に引き立てられ、大瀧のプロジェクト「ナイアガラ・トライアングル」に杉真理とともに参加。自らのアルバムと『NIAGARA TRIANGLE Vol.2』のレコーディングを並行して制作。同年11月には大瀧の「ヘッドフォンコンサート」(渋谷公会堂)に参加、ナイアガラとの交流を深めた。
初期三部作の完成と方向転換

BACK TO THE STREET』『Heart Beat』と2枚のアルバムを発表していたが、セールスには結びつかなかった。しかし、ラジオDJとしてあるいはライブパフォーマンスの凄いロックミュージシャンとして、徐々にファンが付くようになり、アルバム『SOMEDAY』を1982年5月に発表。レコーディング・エンジニア吉野金次を迎え、フィル・スペクター並みのウォール・オブ・サウンドを導入したことで、シングルでは注目されていなかった「SOMEDAY」が注目を浴びるようになり、アルバム『SOMEDAY』はオリコンアルバムチャートで最高位4位を記録。


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