佐賀線
筑後川昇開橋(国指定重要文化財)
基本情報
現況廃止
国 日本
起点佐賀駅
終点瀬高駅
駅数13駅
開業1931年9月24日
全通1935年5月25日
廃止1987年3月28日
所有者鉄道省→運輸通信省→運輸省→日本国有鉄道
路線諸元
路線距離24.1 km
軌間1067 mm
線路数単線
電化方式非電化
閉塞方式タブレット閉塞式
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停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
0.0佐賀
2.3東佐賀
4.0南佐賀
5.5光法
7.8諸富
9.3筑後若津
花宗川橋梁 花宗川
10.1筑後大川
12.6東大川
15.5筑後柳河
18.8百町
20.1三橋
矢部川橋梁 矢部川
24.1瀬高
佐賀線(さがせん)は、かつて佐賀県佐賀市の佐賀駅と福岡県山門郡瀬高町(現・みやま市)の瀬高駅を結んでいた日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線(地方交通線)である[1]。1980年(昭和55年)制定の国鉄再建法により、第2次特定地方交通線に指定され、国鉄分割民営化直前の1987年(昭和62年)3月28日に全線が廃止された[1]。目次 鉄道敷設法別表第113号に規定する予定線「佐賀県佐賀ヨリ福岡県矢部川、熊本県隈府ヲ経テ肥後大津ニ至ル鉄道及隈府ヨリ分岐シテ大分県森附近ニ至ル鉄道」の一部である。矢部川は現在の瀬高、隈府は菊池市であり、さらに豊肥本線の肥後大津へ、隈府からは分岐線が久大本線の豊後森に至るという計画であった。矢部川からは東肥鉄道(後に九州肥筑鉄道と改称)が熊本県南関までを開業、分岐線もその一部(恵良 - 肥後小国間)が国鉄宮原線として開業したが、いずれも佐賀線の廃止より前に廃止されている。 また、佐賀線の開業前に矢部川 - 柳河間で1911年(明治44年)より軽便鉄道の柳河軌道が営業を行っていたが、佐賀線の開業に際して廃止補償を受ける形で、矢部川 - 筑後柳河間開業後の1932年(昭和7年)2月21日に廃止となった。 当線は諸富 - 筑後若津間で筑後川を、筑後若津 - 筑後大川間で花宗川を渡ることになったが、通常の橋では大型船舶の航行に支障をきたすおそれがあるため、筑後川に架かる筑後川橋梁(通称筑後川昇開橋・全長506m)は、列車通過時以外は橋桁中央部を23m上昇させることができる可動橋(昇開橋)とし、花宗川に架かる花宗川橋梁
1 路線データ
2 歴史
2.1 年表
3 運行形態
4 駅一覧
5 廃線跡の状況
6 代替バス
7 脚注
8 関連項目
9 外部リンク
路線データ
管轄:日本国有鉄道
区間(営業キロ):佐賀 - 瀬高 24.1km[1]
軌間:1067mm
駅数:13(うち信号場1。起終点駅を含む)
電化区間:なし(全線非電化)
複線区間:なし(全線単線)
閉塞方式:タブレット閉塞式
交換可能駅:諸富駅、筑後大川駅、筑後柳河駅
歴史
沿線の福岡県大川市一帯は家具産業が盛んで、佐賀線からも全国へ向けて出荷されていた。また、諸富駅から味の素九州工場への引込線が1970年代頃まで存在するなど、沿線住民にとっても欠かせない路線であった。全盛期には佐賀線を経由して熊本駅と長崎駅を結ぶ急行「ちくご」(運転開始時は準急)も運転されていたが、モータリゼーションの影響で乗客は減少するようになり、貨物もトラック輸送へと移行していった。一番の要所でもあった筑後川で、併走する国道208号に諸富橋・大川橋が完成すると、ますます乗客が減り、前述のとおりに廃止が決定した。
年表
1931年(昭和6年)9月24日 矢部川 - 筑後柳河間 (8.6km) を佐賀線として新規開業。三橋駅・筑後柳河駅を新設。
1933年(昭和8年)6月17日 筑後柳河 - 筑後大川間 (5.4km) 延伸開業。筑後大川駅を新設。
1935年(昭和10年)5月25日 佐賀 - 筑後大川間 (10.0km) を延伸開業し全通[2]。同時に起終点を逆転させ鹿児島線の部から長崎線の部に変更。諸富駅・南佐賀駅を新設。気動車運転開始[3]
1936年(昭和11年)6月18日 筑後川信号所を新設。
1937年(昭和12年)6月10日 百町駅を新設。