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佐賀の乱
『皇国一新見聞誌 佐賀の事件』(月岡芳年画)
戦争:士族反乱
年月日:1874年(明治7年)2月1日 - 3月1日
場所:佐賀県
結果: 明治政府の勝利
交戦勢力
明治政府
大日本帝国陸軍
大日本帝国海軍
征韓党
憂国党
指導者・指揮官
大久保利通
小松宮彰仁親王
野津鎮雄
山田顕義
江藤新平
島義勇
朝倉尚武
戦力
東京鎮台
第3砲隊:144名
大阪鎮台
第4大隊:579名
第10大隊:631名
熊本鎮台
第11大隊:647名
第19大隊1個小隊
海兵隊
陸戦隊2個小隊
砲兵1個小隊
貫族隊
前山隊(中立党)
出動のみ(戦に関わらず)
近衛歩兵第2連隊:1170名
東京鎮台
1個中隊:180名
大阪鎮台
第18大隊:704名
砲兵第7大隊1個小隊:127名
広島鎮台
第15大隊3個中隊:492名
約2,500?6,000
憂国党
4個大隊
征韓党
15個→25個小隊
損害
正規軍
戦死者:184人
負傷者:174人
貫族隊等
戦死者:25人
負傷者:27人戦死者:173人
負傷者:160人
士族反乱
(血税一揆)
喰違の変
佐賀の乱
佐賀の乱(さがのらん)は、1874年(明治7年)2月に江藤新平・島義勇らをリーダーとして佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。佐賀の役[1]、佐賀戦争とも。不平士族による初の大規模反乱であったが、電信の情報力と汽船の輸送力・速度を活用した政府の素早い対応もあり、激戦の末に鎮圧された。 征韓論問題で下野した前参議江藤新平を擁する中島鼎蔵等の征韓党と、前侍従・秋田県権令島義勇、副島義高等を擁する憂国党による混成軍。旧佐賀藩士を中心とした部隊であり、以後続発する士族による反乱の嚆矢となった。 乱を率いた江藤と島は、そもそも不平士族をなだめるために佐賀へ向かったが、政府の強硬な対応もあり決起することとなった。しかし、半島への進出の際には先鋒を務めると主張した征韓党と、封建制への復帰を主張する反動的な憂国党はもともと国家観の異なる党派であり、各々の党首である江藤と島がそりが合わない間柄であることも加わって主義主張を共有してはいなかった。そのため、両党は司令部も別であり、協力して行動することは少なかった。また、戊辰戦争の際に出羽の戦線で参謀として名をはせた前山清一郎を中心とする中立党の佐賀士族が政府軍に協力したほか、武雄領主鍋島茂昌など反乱に同調しないものも多く、江藤らの目論んだ「佐賀が決起すれば薩摩の西郷など各地の不平士族が続々と後に続くはず」という考えは藩内ですら実現しなかった。 佐賀の乱における佐賀軍の総兵数は詳しく判明していない。戦後に行われた裁判では赦免となったものも含めると約11,000ほどになるが、明治5年の版籍奉還時に提出された佐賀藩士の総数が約14,000ほどであることや、戦死者数が200人以下であることを考えると、全てが乱に加担した人数では無いと考えられている。明治7年に鎮圧に当たった参謀少佐渡辺央らが西郷従道に提出した「降伏叛徒概計」に6,327人とあり、徳富猪一郎は著書『近世日本国民史 89』でこれが実数に近いであろうと記している[2]。しかし、これには戦闘に参加せずに降伏した数も含まれているとして、江藤新平の弟の孫に当たる鈴木鶴子が著書「江藤新平と明治維新」で征韓党が1500人、憂国党が3500人と記している[3]など、およそ3,000人から6,000人ほどではなかったかとする説が主張されている。なお、記録に残るもので最も多いのは、佐賀城占拠後に山中一郎が戦果を喧伝するために各地に出した手紙にある「憂国党が一万、征韓党が五千、ほかにも各地から士族が集まっている」とするものだが、これは明らかに誇大なものと観られている。
佐賀軍の概要