佐藤鉄太郎
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生誕 (1866-08-22) 1866年8月22日
出羽国田川郡鶴岡高町[1](現・山形県鶴岡市
死没 (1942-03-04) 1942年3月4日(75歳没)
日本東京府
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴1886年 - 1931年
最終階級 海軍中将
除隊後学習院教授
貴族院議員
墓所多磨霊園
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佐藤 鉄太郎[1](佐藤 鐡太郎[2]、さとう てつたろう、旧姓・下向、1866年8月22日慶応2年7月13日) - 1942年昭和17年)3月4日[1])は、日本海軍軍人貴族院議員[2]学習院教授。最終階級及び栄典は海軍中将正三位勲一等瑞宝章功三級。族籍は山形県士族[2][3]
略歴

山形県鶴岡市出身。実父は庄内藩士・平向勇次郎。佐藤安之の養子となる。旧制鶴岡朝陽学校より海軍兵学校第14期入校。入校時成績順位51名中第6位、卒業時成績順位45名中第5位。

日清戦争に砲艦「赤城」航海長として参加。黄海海戦の際、艦長の坂元八郎太が戦死したため代わりに艦の指揮を執る。その後、海軍大学校教官などを経て、日露戦争には上村彦之丞率いる第2艦隊先任参謀として参加。仮装巡洋艦香港丸・日本丸の南洋派遣に同行[4]日本海海戦ではロシア艦隊の偽装転進を見破り、的確な意見具申を行ったことで勝利に貢献した。

日露戦争後に海軍大学校選科学生在籍のまま、同時に海軍大学校教官に任命されると言う一見すると矛盾の様に見える人事を拝命するが、当時は海軍大学校が開設されて日も浅い事から学生のまま他方自己の専門分野を他の学生に教授する事例も存在した。

軍令部次長や海軍大学校校長、舞鶴鎮守府司令長官などを務めたが、加藤友三郎と軍縮を巡る見解の溝が埋まらず大正12年(1923年)に予備役に編入される。その後は学習院教授を経て1934年(昭和9年)、勅選の貴族院議員となる。

東條英教東條英機の父)と並ぶ戦史研究の大家と称されていた。
日本海軍のイデオローグ

山本権兵衛は陸主海従の国防方針を海主陸従に転換すべく画策したが、その一策として明治32年(1899年)に佐藤鉄太郎を一年半イギリスへ派遣し、次いでアメリカへ8ヶ月駐在させた。佐藤は留学前からアメリカ海軍の戦略家マハンの著作を愛読していたが、これらの留学と戦史調査によりマハンの影響を大きく受け、帰国後に海軍大学の教官となりその講義をまとめた『帝国国防論』は海軍大臣の山本権兵衛より明治天皇へ献上された。さらに『帝国国防史論』などを記して各界および世論を涵養し、海軍予算の獲得や制度的に海軍を陸軍並へ整備することを有利にした。また「日本のマハン」と呼ばれた[5]
人物像

幼い頃からどうしても海軍に入りたいと意思を持っていた佐藤は何とか両親を説得して上京する事になる。しかし、当時の
東北地方では戊辰戦争の際に朝敵とされた事から中央に対して好印象を持つ者が少なく、通っていた学校の教師などには何も告げず休み時間にこっそり学校を抜け出してそのまま上京した。

兵学校時代の確執から広瀬武夫と犬猿の仲であったが後に和解した。

海軍兵学校同期の小笠原長生とは、同じ伊庭想太郎の剣道道場に通っていたため交友があり、佐藤の妻・艶子は小笠原長生の妹である。

宗教は日蓮宗[2]


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