佐藤道郎
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政治家の「佐藤道夫」とは別人です。

佐藤 道郎基本情報
国籍 日本
出身地東京都中野区
生年月日 (1947-05-05) 1947年5月5日(77歳)
身長
体重181 cm
87 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1969年 ドラフト1位
初出場1970年4月12日
最終出場1980年10月23日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


日本大学第三高等学校

日本大学

南海ホークス (1970 - 1978)

横浜大洋ホエールズ (1979 - 1980)

監督・コーチ歴


ロッテオリオンズ (1984 - 1986)

中日ドラゴンズ (1991 - 1992)

近鉄バファローズ (1993 - 1996)

中日ドラゴンズ (2004 - 2006)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

佐藤 道郎(さとう みちお、1947年5月5日 - )は、東京都中野区[1]出身の元プロ野球選手投手)・コーチ監督解説者評論家

愛称はミチ、ミチさん。

パ・リーグ初の最多セーブ投手を獲得している。
経歴
アマチュア時代

日大三高ではエースとして同期の石塚雅二とバッテリーを組み、3年次の1965年には夏の甲子園都予選決勝に進むが、後に大学で同期となる日大二高の神山修投手に完封され0-2で惜敗、甲子園出場を逸する。高校の1年上には遊撃手大橋穣、1年下に左翼手磯部史雄がいた。

高校卒業後の1966年、石塚と共に日本大学へ進学。東都大学野球リーグでは低迷が続き、3年次の1968年にチームが二部に降格するが、4年次の1969年に一部復帰を果たす。同年は春秋季連続で8勝という大車輪の活躍で連続優勝に貢献し、最高殊勲選手・最優秀投手・ベストナインを連続獲得。年間16勝[注 1]、秋季の5完封勝利[注 2]はいずれもリーグ記録であった。一部通算40試合登板、20勝9敗、防御率1.52、148奪三振を記録し、二部でも12勝を記録。また、1969年の全日本大学野球選手権決勝では東海大学上田二郎と互いに無失点で投げ合い、9回表に谷口剛の決勝本塁打によって惜しくも0-3で苦杯を喫するが、今も名勝負として語り伝えられている。同年には第8回アジア野球選手権大会日本代表にも選出された。大学同期には石塚・神山[注 3]の他、捕手須藤和彦一塁手植原修平がいた。
現役時代

1969年のドラフト1位で南海ホークスに指名され、大学卒業後の1970年に入団[1]。契約金1700万円[2]。1年目の同年は野村克也選手兼任監督の就任1年目であったが、佐藤は新人ながらリリーフの中軸に抜擢される。リーグ最多となる55試合に登板し、交代完了は47試合を数えた。 オールスターゲームにも出場し、最終的にはチームトップの18勝、防御率2.05の成績で最優秀防御率新人王のタイトルを獲得[1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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