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.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}佐藤 誠三郎(さとう せいざぶろう)人物情報 東京生まれ。1950年、東京都立日比谷高等学校入学。同級に江藤淳が、一級上に作家の坂上弘がいた。この頃にマルクス主義の影響を受け日本共産党に入党。1957年、東京大学文学部国史学科卒業。この時期の友人に東大名誉教授の伊藤隆、渡辺昭夫がいる。学生運動と研究の両方でマルクス主義に幻滅する中で、丸山眞男の著作をきっかけに共産主義から転向[1]。大学院文学研究科の入試に失敗したが、翌年に東京大学法学部政治学科に学士入学した[2]。 1960年、同大学法学部政治学科を卒業し、岡義武教授の下で学士助手として日本政治外交史を研究した。1964年に立教大学法学部助教授、また1967年に東京大学教養学部助教授、1977年教授。東大教養学部では、政治学入門等の講義のほか、教養課程の1・2年生向きのゼミを主催し、学界・官界などで活躍する後進を育てた。政治学を志望する学生は3・4年の専門課程で法学部に進むことが多く、教養学部所属の佐藤に学部四年間・大学院を通じて指導を受ける弟子は少なかったが、北岡伸一・下斗米伸夫・舛添要一・三谷博・御厨貴・岡田克也・加藤淳子・飯尾潤・米山隆一・中野剛志ら多くの政治家や学者に影響を与えている。 明治維新の研究から領域を広げて、日本の近代化の包括的な共同研究に取り組み、村上泰亮・公文俊平との共著で『文明としてのイエ社会』という成果に結実した。[2] 東京大学教養学部において自治会主導で行われた年中行事的な「ストライキ」に対しては保守派教授として「スト破り」の講義を敢行し、その際のスト支持派の活動家学生との応酬は「駒場名物」の一つであった。 1970年代初め、日本学者アルバート・クレイグの招きでハーバード大学に研究留学したことから、海外、特に米国の学界にも知己が多く、日本政治や日米関係を研究する多くの若手研究者にとっての受け入れ窓口的な存在でもあった。ジョージ・ブッシュ大統領(第43代)の対日政策に大きな役割を果たしたマイケル・グリーンもその一人である。米国留学の経験は、米国への深い理解とともに、日本人としての立脚点を考え直す機会になった。[2] 1988年の東大駒場騒動では、中沢新一を推す西部邁や村上泰亮、公文俊平らを支持した。 1992年に定年を前にして東大を去り、慶應義塾大学総合政策学部に移り、「比較政党論」や「安全保障論」、また「国際紛争論」の講義を担当し、ゼミでは盟友である村上泰亮の遺作『反古典の政治経済学』の会読などを行った。 中曽根康弘、西部邁、村上泰亮が参加する討論の小研究会が定期的に開かれ、この研究成果が「共同研究『冷戦以後』」として結実したが、なかでも東大教養学部での同僚で共著を二冊出版している村上泰亮との親交は特に深く、互いに学問的にも大きく影響し合い、村上の大著「反古典の政治経済学」について、「産業革命以後の変化の基本的動向とその問題点とを深くまた包括的に分析したもので日本の社会科学の金字塔ともいえる業績」と高く評価しいる[3]。 英国にあるチョーサー・カレッジ・カンタベリー(Chaucer college Canterbury:CCC)の設立に尽力して、1992年の開学とともに初代学長に就任、秀明大学客員教授も兼任した。秀明大学図書館には生前に蔵書を寄贈した佐藤誠三郎文庫がある[4]。 大平正芳および中曽根康弘政権で、大平内閣政策研究グループ幹事や第二次臨時行政調査会参与などブレーンを務めた。 日本政治学会理事、財団法人平和安全保障研究所理事、日米諮問委員会(賢人会議)委員、外務省南西アジア・フォーラム座長、防衛戦略研究会議議長などを歴任。[5]のちに中曽根が設立したシンクタンク世界平和研究所所長代理に就任。 無類の酒好きとしても知られたが、晩年には健康のためお酒は控えていた。1999年11月28日、肝臓疾患により死去。[2]。享年67歳。墓所は川崎市春秋苑。
全名佐藤 誠三郎
(さとう せいざぶろう)
生誕1932年7月8日
日本・東京都
死没 (1999-11-28) 1999年11月28日(67歳没)
学問
時代20世紀
活動地域 日本
研究分野政治学、安全保障論
研究機関東京大学、慶應義塾大学
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佐藤 誠三郎(さとう せいざぶろう、1932年7月8日 ‐ 1999年11月28日)は、日本の政治学者、東京大学名誉教授。正四位勲二等瑞宝章。大平正芳、中曽根康弘両政権時のブレーンを務め、保守派の論客として知られた。
経歴
その後、埼玉大学大学院政策科学研究科教授、政策研究大学院大学副学長などを歴任した。
親族
曽祖父 - 茂木太平(武蔵国庄屋)
祖父 - 佐藤虎次郎(衆議院議員)
妻 - 佐藤欣子(旧姓斎藤、弁護士、法学者、秀明大学教授)