この項目では、元プロ野球選手について説明しています。将棋棋士については「佐藤義則 (棋士)」をご覧ください。
1989年生のプロ野球選手の「佐藤由規」とは別人です。
佐藤 義則関メディベースボール学院 統括投手コーチ
東京ドームにて(星野)(2018年)
基本情報
国籍 日本
出身地北海道奥尻郡奥尻町
生年月日 (1954-09-11) 1954年9月11日(68歳)
身長
体重181 cm
86 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1976年 ドラフト1位
初出場1977年5月11日
最終出場1998年10月1日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
函館有斗高等学校
日本大学
阪急ブレーブス
オリックス・ブレーブス
オリックス・ブルーウェーブ(1977 - 1998)
監督・コーチ歴
オリックス・ブルーウェーブ (1999 - 2000)
阪神タイガース (2002 - 2004)
北海道日本ハムファイターズ (2005 - 2007)
東北楽天ゴールデンイーグルス (2009 - 2014)
福岡ソフトバンクホークス (2015 - 2017)
東北楽天ゴールデンイーグルス (2018 - 2019)
関メディベースボール学院
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佐藤義則
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佐藤義則チャンネル
佐藤 義則(さとう よしのり、1954年9月11日 - )は、北海道奥尻郡奥尻町[1]出身の元プロ野球選手(投手)。コーチ・野球解説者・野球評論家。佐藤義則事務所所属。 北海道奥尻郡奥尻町出身。奥尻中学校で本格的に野球を始め、中学3年の時に函館地区で優勝して全道大会に出場した[1]。卒業後、函館有斗高校に進学して上野美記夫の指導を受ける。エースとして1972年春季北海道大会決勝に進み、苫小牧工業高校の工藤敏博(法政大学)と投げ合い完封勝利で優勝[1]。同年夏の甲子園南北海道予選も決勝に進出するが、今度は苫小牧工業高校に0-2で惜敗し甲子園出場を逸する[1]。卒業後は日本大学に進学[1]。当時の日本大学は低迷期にあり、東都大学野球リーグでは、1974年秋季リーグ後に二部降格(1季のみ)も経験する。しかし1976年秋季リーグでは8勝4敗の好成績をあげ、シーズン78奪三振(東都大学野球リーグでは円子宏の83奪三振に次ぐ当時第2位)を記録した[1]。また1974年、1976年の日米大学野球選手権大会日本代表、1975年の第11回アジア野球選手権大会日本代表に選出されている。一部リーグ通算62試合登板、22勝21敗、防御率2.48、242奪三振。大学同期には和泉貴樹(日立製作所?日本大学監督)らがいる。同年秋のドラフト会議で阪急ブレーブスの1位指名を受け入団した[1]。 1977年に黄金時代のチームで入団1年目で7勝を挙げて新人王に選出された[1]。
経歴
アマチュア時代
プロ時代