佐藤紅緑
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佐藤 紅緑
(さとう こうろく)
晩年の佐藤紅緑
誕生佐藤洽六
1874年(明治7年)
青森県弘前市親方町
別名佐藤紅緑
死没1949年(昭和24年)6月3日
東京都世田谷区上馬
墓地世田谷区の喜福寺
言語日本語
国籍 日本
教育東奥義塾に学ぶ
ジャンル俳人劇作家小説家
代表作小説『ああ玉杯に花うけて
パートナー三笠万里子(妻)
子供サトウハチロー
佐藤愛子
大垣肇
影響を受けたもの

陸羯南
正岡子規

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佐藤 紅緑(さとう こうろく、1874年明治7年〉7月6日 - 1949年昭和24年〉6月3日)は、日本劇作家小説家俳人。本名:洽六[1].mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル 文学
来歴書斎で小説『一直線』を執筆中の佐藤紅緑。1930年43歳-44歳頃。小説は1931年講談社より上梓妻の三笠万里子 聚楽館の養成所女優。娘佐藤愛子はその生涯をもとに『女優万里子』を上梓

1874年(明治7年)、現在の青森県弘前市親方町に、父・弥六、母・支那(しな)の次男として出生[1]

父の佐藤弥六(1842年 - 1923年)は、幕末に福沢諭吉の塾(慶應義塾)で学び、帰郷して県会議員となり産業振興に尽力、また『林檎図解』『陸奥評話』『津軽のしるべ』などの著書も著し、森?外の作品「渋江抽斎」にも郷土史家として登場する、弘前を代表する人物だった。

1890年東奥義塾を中退、青森県尋常中学校(後の青森県立弘前中学校 現・弘前高校)に入学[1]。1893年、遠縁に当たる陸羯南を頼って上京[1]、翌1894年日本新聞社に入社[1]正岡子規の勧めで俳句を始め「紅緑」と号す[1]。1895年脚気を患ったために帰郷[2]、東奥日報社に入社[1]、小説、俳句などで活躍。1896年に東北日報社、翌1897年には河北新報社の主筆となる。1900年、報知新聞社に入社し[1]大隈重信に重用される。記者活動の他に俳人として活躍。大デュマヴィクトル・ユーゴーなどの翻訳も手がける。

1905年、記者生活を止め、俳句研究会を起こす。小説「あん火」「鴨」など自然主義風の作品により注目を浴び、1908年、創作集『榾(ほだ)』を刊行。1912年に小説『霧』、1913年に『谷底』など新聞連載小説を発表する。

一方で、1906年から1914年まで、新派の本郷座の座付作者を勤めるなど、演劇に力を注ぎ、1909年日本最初の映画会社である吉沢商会の顧問となり、1916年には劇団日本座を立ち上げた[2]。20歳下の女優・横田シナ(後、三笠万里子と改名)を見初める。1918年、年上女房はるとの別居などを経て、1922年、万里子と結婚。1923年、映画研究のため渡欧、翌1924年東亜キネマの所長に就任する(1925年退任)[2]。紅緑は妻・三笠万里子を女優として売り出そうとするが、「紅緑にとりいって主役の座を得た」との悪評により、成果は思わしくなかった。結局、万里子は妊娠・出産により女優を断念する。

1919年から1927年にかけて新聞雑誌に連載小説『大盗伝』(1921年)「荊の冠」(1922年)『富士に題す』(1927年)を書き、大衆小説の人気作家となる。

1925年ごろ、兵庫県武庫郡鳴尾村(現在の西宮市甲子園の自宅を「少年倶楽部」編集長の加藤謙一が訪問して、連載小説の寄稿を依頼した[3]。佐藤は「洟垂れ小僧向けに書けるか」と激怒し、諦めた加藤が去り際に「佐藤先生ならよい読み物を書いてもらえると思って来たのだが」と口にすると「考えてみる」と翻意、加藤の帰京後しばらく経ってから電話で連載受諾を返答した[3]。この結果、1927年から少年小説『あゝ玉杯に花うけて』を連載し好評を博し[1]、挿絵画家高畠華宵の寄稿拒否で低迷していた「少年倶楽部」の部数を大きく伸張させた[3]。その後も『少年讃歌』『英雄行進曲』などを書き、同誌の黄金期を築いた。また、加藤謙一に漫画の掲載を進言し、田河水泡の『のらくろ』が生まれることになる[4]

「少年倶楽部」と同じ大日本雄弁会講談社(現・講談社)の雑誌「キング」などにも多くの連載小説がある。『少年連盟』はジュール・ヴェルヌ十五少年漂流記』の翻案である。

1949年6月3日、老衰のため東京都世田谷区上馬の自宅で永眠[1]。享年75。戒名は好学院殿創文紅緑居士[5]
人物末娘|直木賞作家佐藤愛子。長男で詩人のサトウハチローとは異母兄妹

本人の意に反して執筆することとなった少年小説の分野で昭和初期に圧倒的な支持を受け[6]、「少年小説の第一人者」として知られる。

子に作詞家詩人サトウハチロー[1]、小説家の佐藤愛子[7]脚本家で劇作家の大垣肇がいる。3人とも母は異なり、肇は愛人の子供であり、同居はしていない。

弟子に佐藤惣之助と、独自の日本文化論を提唱した福士幸次郎の、2人の詩人がいる。福士は紅緑の食客で、紅緑の家庭内の事件のたびにその収拾に奔走した。長男|詩人サトウハチロー(本名佐藤八郎)。直木賞作家佐藤愛子とは異母兄妹

晩年の紅緑は、少年たちに理想を説く小説を書き続けたが、皮肉にも、別居していた肇以外の、長男ハチローをはじめとする4人の息子たちは、すべて道楽者の不良青少年となった。ハチローは詩人として成功したが、他の3人は、乱脈な生活を続けた破綻者となり、破滅的な死を迎えた。紅緑は生涯、彼らの借金の尻拭いをし続けた。その有様は、娘・愛子の小説『血脈』に描かれている。
著書

『従軍記者決死隊』(新声社) 1901.11


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