この項目では、元プロ野球選手について記述しています。サッカー選手の同名の人物については「佐藤真一 (サッカー選手)」をご覧ください。
「佐藤眞一」、「佐藤進一」、あるいは「佐藤慎一 (曖昧さ回避)」とは別人です。
佐藤 真一2011年10月15日 横浜スタジアムにて(ヤクルトコーチ時代)
基本情報
国籍 日本
出身地北海道札幌市南区
生年月日 (1965-08-07) 1965年8月7日(58歳)
身長
体重185 cm
82 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手
プロ入り1992年 ドラフト4位
初出場1993年4月11日
最終出場2005年10月11日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
東海大学付属第四高校
東海大学
北海道拓殖銀行
たくぎん
福岡ダイエーホークス (1993 - 1995)
ヤクルトスワローズ (1996 - 2005)
コーチ歴
東京ヤクルトスワローズ (2006 - 2014)
オリックス・バファローズ (2015)
東京ヤクルトスワローズ (2021 - 2023)
札幌大学
国際大会
代表チーム 日本
五輪1992年
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佐藤 真一(さとう しんいち、1965年8月7日 - )は北海道札幌市南区出身[1]の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。
東海大学、たくぎんを経て27歳でプロ入りし、40歳まで現役選手としてプレーした。バルセロナオリンピック野球の銅メダリスト。現役引退後は東京ヤクルトスワローズ、オリックス・バファローズでコーチを務めた。
Honda硬式野球部に所属する佐藤竜彦
は長男。小学2年の時に野球を始める[2]。学生時代、勉学は常にトップクラスの成績だった。甲子園などの大舞台への出場はなかったが、野球部の中心選手として「文武両道」を地でいく活躍を見せ、東海大学付属第四高等学校時代には「松前賞」を受賞している。卒業後は東海大学へ進学[2]。同期には荻原満がいる。2年の時に投手から外野手へ転向し、1988年には全日本メンバー入りする[2]。首都大学リーグ通算28試合出場、104打数30安打、打率.288、15打点。卒業後は北海道拓殖銀行に入行[2]。
1989年は都市対抗野球で大昭和製紙北海道の補強選手として出場して準優勝[3]。同大会では三菱重工広島の補強選手として出場した佐々岡真司、新日本製鐵堺の野茂英雄の両者からホームランも打っている[2]。1990年8月、アトランタでのアマチュア野球ワールドオールスターゲームで東軍代表(アジア・欧州・オセアニア、名誉監督王貞治、監督山中正竹)として出場し、ハンク・アーロンが名誉監督の西軍代表(アフリカ・アメリカ)を破り初代最優秀選手となった。
1992年のバルセロナオリンピックでは、山中監督率いる日本代表チームに、プロ入り後にもチームメイトとなる小久保裕紀や伊藤智仁らと共に選ばれた。当時から強肩で知られており、一次リーグ5試合目のイタリア戦ではピッチャーとしてマウンドにも上がっている。打撃でも全日本の3番を打ち、銅メダル獲得に貢献した[2]。
その年のプロ野球ドラフト会議で福岡ダイエーホークスから4位指名を受け、27歳にしてプロ入りを果たした[2]。即戦力として期待され、背番号は「7」が与えられた。契約金1億円はドラフト1位以外の下位指名では史上初であった。 1993年シーズンは、1年目から一軍で56試合に起用されている。4月17日の福岡ドーム初の公式戦、0-1で迎えた9回裏1アウト走者二塁の場面で代打で出場し、完封記録のかかる野茂英雄・光山英和のバッテリーの前にキャッチャーへのファウルフライに倒れた。またこの年福岡ドームで開催されたフレッシュオールスターにも出場している。 1994年は一軍での出場は24試合、1安打に留まった。当時の監督根本陸夫には4番を打っていた秋山幸二が負傷欠場した際、他の選手の打順を繰り上げずに佐藤を4番で起用するなど期待をかけられるも打撃で結果を出せずに徐々に出番が減っていった。 1995年には僅か7試合の出場に終わり、同年オフに田畑一也と共に、柳田聖人・河野亮との交換トレードでヤクルトスワローズへ移籍[2]。背番号は「00」。 野村克也が監督在任中は守備固め中心の起用となった。1997年シーズンは、4月19日の対阪神タイガース戦(福岡ドーム)で4-4の同点の9回一死無走者の打席で葛西稔からサヨナラ本塁打を放った[4]。西武ライオンズとの1997年の日本シリーズ第4戦では、8回裏1死3塁の場面で打席が回り、ブライアン・ギブンスからダメ押しとなる2点本塁打を放っている。
プロ入り後
ダイエー時代
ヤクルト時代