佐藤次郎
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この項目では、テニス選手について記述しています。編集委員の同名の人物については「佐藤次郎 (編集委員)」をご覧ください。

佐藤二郎」あるいは「佐藤二朗」とは別人です。

佐藤次郎
Jiro Satoh


佐藤次郎。1932年、シドニーにて[1]
基本情報
愛称ブルドッグ佐藤
国籍 日本
出身地同・群馬県北群馬郡長尾村(現渋川市)
生年月日 (1908-01-05) 1908年1月5日
没年月日 (1934-04-05) 1934年4月5日(26歳没)
死没地マラッカ海峡
利き手右
4大大会最高成績・シングルス
全豪ベスト4(1932)
全仏ベスト4(1931・33)
ウィンブルドン(英)ベスト4(1932・33)
全米4回戦(1932・33)
4大大会最高成績・ダブルス
ウィンブルドン(英)準優勝(1933)
4大大会最高成績・混合ダブルス
全豪準優勝(1932)
キャリア自己最高ランキング
シングルス3位(ウォリス・マイヤーズ選定)
■テンプレート  ■プロジェクト テニス
ジャック・ブルニョンと。1929年原田武一布井良助と佐藤(前列左から二人目)。1932年、シドニー

佐藤 次郎(さとう じろう, 1908年明治41年)1月5日 - 1934年昭和9年)4月5日)は、日本の男子テニス選手。1930年代前半にグランドスラムシングルスベスト4、ウィンブルドン選手権ダブルス準優勝、全豪オープン混合ダブルス準優勝など国際的に活躍し、1933年に世界ランキング3位となった。グランドスラムシングルス ベスト4進出5回は現在も日本人歴代最多記録。現在日本人男子シングルス最後の全豪全仏全英ベスト4進出者である。現役中に26歳で自殺した。
来歴
生い立ち

1908年1月5日、群馬県北群馬郡長尾村(現渋川市)の豪農に生まれる。旧制渋川中学校入学後、1926年4月、早稲田大学予科に進学。早稲田大学在学中に日本ランキング1位となる。1933年、早稲田大学政治経済学部経済学科中退。
世界トップレベルへ

1930年昭和5年)の全日本テニス選手権でシングルス優勝。1931年からデビスカップの日本代表となる。同年の全仏選手権で初の4大大会準決勝に進出し、世界ランキング9位に入る。この大会では、当時の男子テニス界でダブルスの第一人者だったジョン・バン・リンアメリカ)を準々決勝で破った。1932年昭和7年)、ウィンブルドン選手権大会の準々決勝で前年優勝者のシドニー・ウッドアメリカ)を破った。続く準決勝で敗れた相手は、イギリスバニー・オースチンであった。この年は年末の全豪選手権でも、シングルスでハリー・ホップマンとの準決勝まで進み、混合ダブルスではメリル・オハラウッド(パット・オハラウッドの夫人)とのペアで準優勝を記録した。

1933年(昭和8年)は佐藤にとって最高成績の年となり、全仏選手権ウィンブルドン選手権の2大会連続でベスト4に進出し、とりわけ全仏選手権の準々決勝では、イギリスの英雄フレッド・ペリーを破っている。ペリーは今日でも“イギリスのテニスの神様”として称えられるほどの名選手であり、そのペリーを破ったことで佐藤の世界的な評価はさらに高まった。ウィンブルドンのダブルスでは布井良助神戸高商卒)とペアを組んで決勝に進み、フランスジャン・ボロトラジャック・ブルニョン組から第1セットを奪った[注 1]。この年はデビスカップの対オーストラリア戦で、当時の世界ランキング1位であったジャック・クロフォードを破ったが、佐藤はシングルス第2試合で当時17歳のビビアン・マグラスに敗れてしまい、佐藤自身は日本チームが2勝3敗で敗退したことに深い精神的ショックを受けた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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