佐藤昭子
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この項目では、田中角栄の秘書について記述しています。柔道家の同名の人物については「佐藤昭子 (柔道)」をご覧ください。

さとうあき子」あるいは「佐藤明子」とは別人です。

さとう あきこ
佐藤 昭子
生誕佐藤昭
1928年8月5日
新潟県刈羽郡枇杷島村(現・柏崎市
死没 (2010-03-11) 2010年3月11日(81歳没)
国籍 日本
出身校東京女子専門学校(現・東京家政大学)中退
職業秘書
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佐藤 昭子(さとう あきこ、旧名:佐藤 昭〈さとう あき〉、1928年昭和3年〉8月5日[1] - 2010年平成22年〉3月11日、女性)は、日本の政治家秘書、政治運動家。33年間にわたって田中角栄の秘書を務め、その愛人であったといわれ「越山会の女王」と称された。後に「政経調査会」を主宰した。
来歴

新潟県刈羽郡枇杷島村(現・柏崎市)に生まれる[注釈 1]。両親は雑貨店を営んでいた。6人きょうだいの末っ子であったが、1人の姉は昭の出生前に死亡しており、1944年(昭和19年)までに父母、2人の兄、2人の姉と死別した。枇杷島小学校3年からそろばん塾に通って[2][注釈 2]1級を取得し、数学・習字・体育が得意であった[3]1941年(昭和16年)小学校卒業後に進学した新潟県立柏崎高等女学校(5年制、のち4年制に変更。現・新潟県立柏崎常盤高等学校)では級長を務め、陸上部の短距離走の選手であった[4]。数学の先生になりたいと願い[5]1945年(昭和20年)東京女子専門学校(3年制。現・東京家政大学)に進学したが、東京大空襲で学校が焼失し[1]戦時教育令により授業が停止されたため中退した。

1946年(昭和21年)の衆院選に立候補した田中角栄と出会い、選挙活動を手伝った。田中の応援演説を行なった男性との結婚・離婚、息子の出産と離別、キャバレー勤務を経て、1952年(昭和27年)に田中の秘書となった。イトーピア平河町ビル内の田中の個人事務所にあって田中の政治団体越山会の統括責任者などの要職を歴任した。この間、キャバレーの客であった東京電力社員[6]の男性と二度目の結婚・離婚を経験し、1957年(昭和32年)に田中の娘と見られる敦子を出産した。敦子の戸籍上の父は二番目の夫であったため、後に敦子は自分の出生に悩み、自殺未遂を繰り返した[6]

田中内閣の末期、雑誌『文藝春秋1974年(昭和49年)11月号で児玉隆也が執筆したルポ「淋しき越山会の女王」により、広くその名を知られるようになった[注釈 3][6]。11月15日、佐藤を参考人として国会に招致することが決まったが、佐藤は「私は気が小さくて、それに記憶力がいいから全部しゃべっちゃうわ」と反撃し、4日後に招致は撤回されたものの[7]、間もなく田中内閣は総辞職に追い込まれた。1976年(昭和51年)ロッキード事件で田中が逮捕された後、佐藤も東京地検特捜部事情聴取を受けた[注釈 4][1]1979年(昭和54年)に本名を「昭」から「昭子」に改名した[注釈 5][5]

1985年(昭和60年)2月27日、田中角栄が脳梗塞で倒れて政治生命を失うと、角栄と妻はなとの間の娘である田中眞紀子によって事務所は閉鎖され、早坂茂三とともに田中事務所を解雇された。原因は眞紀子と佐藤側の根深い対立関係にあったとされている。解雇後は自ら政治団体「政経調査会」を主宰し活動(会長は高鳥修で、佐藤は専務理事兼会計責任者[6])した。1993年(平成5年)には、のちに巨額不正経理が発覚した福原学園傘下の財団法人自由ケ丘教育振興財団(理事長・三浦清一郎)の理事を務めた[9][10]。田中角栄とは一切会えなくなり[注釈 6]、1993年に角栄が死去した時も対面はおろか、通夜にも葬式にも行けなかったが、翌年には角栄との人生を綴った著書を出版した。また旧田中派議員・関係者等の人脈に連なり、政治資金を提供するなど、政界になお一定の影響力を持っていた。

自由民主党(自民党)木曜クラブ(田中派)への影響力も強大であった。かつて田中派の中堅・若手議員であった橋本龍太郎小渕恵三羽田孜小沢一郎らにとっては政界における姉貴分であり、所属党派が分かれた後も揃って「ママ」と呼んで慕った[注釈 7][6]

一時は巨額の資産を所有していたが、資産を預けていた高橋治則1995年(平成7年)に二信組事件で逮捕されてから大半を失い、影響力も低下した[1]2008年(平成20年)に肺癌と診断された[1]

2010年(平成22年)3月11日、肺癌の進行により、東京都港区白金の北里研究所病院で亡くなった。81歳没。葬儀喪主・敦子により家族葬で行われ、政治家で参列したのは既に引退していた上草義輝だけで、小沢一郎は病院で遺体と対面し、「ママ、お世話になったね」と小さく呟き、涙を流した[1][6]
エピソード

死後、昭子の寝室の金庫を開けた敦子は、田中角栄が昭子や敦子に宛てて書いた手紙を発見した。この手紙は「田中角栄の恋文」として『文藝春秋』
2011年(平成23年)11月号に立花隆の解説と共に掲載された。田中は自民党総裁選挙で勝利した1972年(昭和47年)7月5日、昭子に「愛君山岳心不移」と書いている[1]


佐藤は田中の信頼が厚い有能な秘書であったが、田中の政治資金の全てを管理していたわけではなく、複数の金庫が存在していた[7]

朝賀昭(あさか あきら、佐藤の部下の男性)が初めて会った時の印象として「胸も豊かでスタイルも良く」「まぶしく映った」と記したように[6]、男性を魅了するスタイルを持っていた。佐藤自身も晩年の著書で「自分で言うのも少しおこがましいが、まだ若かった私はスタイルもなかなかで、さっそうとしていたはずだ」と誇りを持って回想している[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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