佐藤愛子_(作家)
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佐藤 愛子
(さとう あいこ)
直木賞作家 佐藤愛子
ペンネーム佐藤 愛子
誕生佐藤 愛子
(1923-11-05) 1923年11月5日(99歳)
大阪府大阪市
職業小説家
エッセイスト
言語日本語
国籍 日本
最終学歴甲南高等女学校卒業
ジャンル小説
エッセー
代表作『青い果実』(1950年)
『ソクラテスの妻』(1963年)
『花はくれない 小説佐藤紅緑』(1967年)
『戦いすんで日が暮れて』(1969年)
『女優万里子』(1974年)
『血脈』(1989年-2000年)
『晩鐘』(2014年)
『九十歳。何がめでたい』(2016年)
『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』(2021年)
主な受賞歴直木賞(1969年)
女流文学賞(1979年)
菊池寛賞(2000年)
紫式部文学賞(2015年)
旭日小綬章(2017年)
デビュー作『青い果実』
配偶者森川 弘(死別)
田畑麦彦(離婚)
親族佐藤紅緑(父)
三笠万里子(母)
サトウハチロー(異母兄)
大垣肇(異母兄)
杉山弘幸(娘婿)
杉山響子(長女)
杉山桃子(孫)
影響を受けたもの

佐藤紅緑(作家、実父)
加藤武雄(作家)
北原武夫(作家)

影響を与えたもの

随筆春秋
随筆春秋賞
近藤健 (作家)
佐藤愛子奨励賞

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佐藤 愛子(さとう あいこ、1923年大正12年)11月5日[1] - )は、日本小説家[2]大阪市生まれ、西宮市育ち。小説家・佐藤紅緑と女優・三笠万里子(1893 - 1972)の次女として出生。異母兄に詩人・サトウハチロー脚本家劇作家大垣肇。甲南高等女学校(現 甲南女子高等学校)卒業。同人誌 随筆春秋の指導者を、その創成期から務め、2023年令和5年)で丸30年となる。 
経歴.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル 文学
直木賞受賞までの経緯

初婚に破れた佐藤愛子は、資産家の子息である田畑麦彦と再婚し、一女を設けた。 田畑麦彦は、そもそもは新人賞クラスの小説家であったが、結婚後は、事業家としての活動に力を入れるようになっていった。

その事業だが、いっときは軌道に乗ったようにも思えたが、田畑の、ある意味、特殊な金銭感覚が禍して、結局は大きな借財を抱えるに至る。

佐藤愛子は、その田畑と離婚をする。田畑自身の説明によれば 、「借金の火の粉が妻に降りかからないための偽装離婚」のはずだった。

だが、いざ離婚してみると、その直後、田畑は、銀座で飲食店を経営する女性と、ちゃっかり入籍していた。それでも人のいい佐藤愛子は、元夫の莫大な借金を返すために、身を粉にして働き続ける。

全国ネットワイドショーご意見番から、作家としての本来の仕事まで、馬車馬のように走り続けた。そんな状況下で一気に書き上げた小説『戦いすんで日が暮れて』が、直木賞を受賞する。1969年昭和44年)、佐藤愛子45歳のときであった。

作品は、文庫本で50ページほどの短編小説て、主人公の「私」が、元夫の借金返済のために東奔西走するという、実話をもとにした奮戦記である。以下がそのラストシーン。桃子というのは、主人公の愛娘。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}暮れなずむ空の下で渓流のように車が走っていた。歩道橋に上って南の方を眺めると、既に暮れた鼠色の町の果からヘッドライトをつけた車が際限もなく湧き出して来て、まるで無人車のように機械的な速度でまっしぐらに走り、あっという間に足の下に消え去る。警笛も人声も聞えぬ、ただ轟々と一定の音のかたまりが、環状七号線をゆるがしている。 「うるさいぞオーッ、バカヤローッ!」突然、私は歩道橋の上から、叫んだ。「桃子、あんたもいってごらんよ」桃子は喜んで真似をした。「バカヤローッ、うるさいぞオーッ」私と桃子の声は轟音の中に消えた。私はどなった。 「いい気になるなったら、いい気になるなーッ」車は無関心に流れていた。沿道に水銀灯がともった。轟々と流れる車の川の上で、私と桃子は南の方を向いて立っていた。(終)—直木賞作家 佐藤愛子、『戦いすんで日が暮れて』

バカヤローッ、という台詞が読者に鮮烈な印象を与える。 その後も、佐藤愛子は、多くの作品を書き、数々の賞も受賞している。だが、この『戦いすんで日が暮れて』が、彼女のもっとも素晴らしい作品である、と評する識者がいる。「なんといってもその文章に勢いがある」、というのが、この識者の視点である。

佐藤愛子は、本当は、友人である芥川賞作家 北杜夫の『楡家の人びと』ような大作を書いて世に出ることを青図に描いていた。つまり、直木賞受賞に関しては、「ちょっと待った」というのが、佐藤愛子の本音であった。

以上が、直木賞作家 佐藤愛子誕生の経緯である[3][4] 随筆春秋創刊号 指導者を務めて30年
佐藤愛子奨励賞の新設、随筆春秋との関わり

堀川とんこう(当時はTBSプロデューサー)の母親 堀川としが、実業家として働く傍ら、1993年に同人誌 随筆春秋を創設する。エッセーが専門の純文学同人誌である。それから間もなくのある日、彼女は、直木賞作家 佐藤愛子の自邸を訪れ、随筆春秋の指導者になってくれないかと迫る。応接間で機関銃のようにまくし立てられた佐藤愛子は、とうとうその申し出を引き受けてしまった。佐藤愛子自身、どうしてそんなことになってしまったのか、今もって分からないのだという[5]

また、堀川とんこうの妻 高木凛(脚本家)が、随筆春秋と佐藤愛子とを結びつけるべく、内助の功を尽くした事実も忘れてはならない。[5]

つまり、佐藤愛子は、創成期から、随筆春秋の指導者を務めている。2023年で丸30年となる。

2020年には、佐藤愛子自身の希望もあって、既存の随筆春秋賞とは別に、佐藤愛子奨励賞が新設された。佐藤愛子が唯一の審査員である。随筆春秋事務局員らがそれを支える。[6]
略年譜 三笠万里子    (母親、元女優) 旧日本陸軍の伊那飛行場跡 サトウハチロー  (異母兄、詩人)


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