佐藤康弘
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佐藤泰弘」、「佐藤康宏」、あるいは「佐藤康博」とは別人です。

佐藤 康弘基本情報
国籍 日本
出身地栃木県
生年月日 (1967-07-25) 1967年7月25日(56歳)
身長
体重176 cm
76 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


創価高等学校

創価大学

プリンスホテル

監督・コーチ歴

創価大学

国際大会
代表チーム 日本
五輪1992年
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

オリンピック
男子 野球
1992野球

佐藤 康弘(さとう やすひろ、1967年7月25日 - )は、日本の野球選手投手)、野球指導者。
経歴

中学生時代まで栃木県で過ごしていたが、都内の強豪校で野球をしたいと考えて創価高校に進学した[1]。しかし硬式球を使った練習で左ひざを痛め、2年生になるまで練習ができなかったという。玉川上水沿いで走り込むなど練習を重ね、背番号1のエースとして臨んだ1985年夏の西東京大会では準々決勝に進出するが、法政一高に敗退した。

1986年創価大学に進学し野球部に入部した。東京新大学リーグでは流通経済大の後塵を拝し、在学中8季連続2位にとどまる。しかし猛練習を積み[2]、2年生の1987年秋季リーグではノーヒットノーランを達成している。

大学卒業後はプリンスホテルに進み、1年目の1990年都市対抗ではエースとして日本通運本田技研鈴鹿から2勝を挙げて準々決勝に進出。大阪ガスに敗退するものの優秀選手として表彰された。翌1991年都市対抗にも出場した。椎間板ヘルニアに苦しむ[1]も、1992年にはバルセロナオリンピック野球日本代表に選ばれ、銅メダル獲得に貢献した。予選リーグの対キューバ戦ではオマール・リナレスに本塁打を浴びるなど4失点したが、対アメリカ戦では1回1/3を無失点に抑えている[3]。同年の社会人野球日本選手権でも武藤潤一郎前田勝宏山下和輝らのメンバーで進んだ準々決勝でNTT信越を抑えたが、決勝で東芝に敗れ準優勝にとどまる。

1996年に現役を引退し、以降は母校の創価大学でコーチを務めると八木智哉小川泰弘石川柊太田中正義らを指導した。2022年秋には監督に就任した。
脚注^ a b読売新聞、2005年7月7日付朝刊、東京地方面
^東京新大学野球連盟 対談
^ 別冊宝島、1545号、P.82

関連項目

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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