佐藤幸徳
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佐藤 幸徳
第75連隊長時の佐藤
生誕1893年3月5日
大日本帝国 山形県
死没 (1959-02-26) 1959年2月26日(65歳没)
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1913年 - 1945年
最終階級 中将
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佐藤 幸徳(さとう こうとく、1893年明治26年)3月5日 - 1959年昭和34年)2月26日)は、日本大日本帝国陸軍軍人。最終階級中将

山形県出身。陸士25期、陸大33期。インパール作戦において、軍司令官の牟田口廉也中将と対立し、作戦途中に師団長による独断退却を行ったことで知られる[1]
生涯
前半生

山形県に生まれた佐藤は、鶴岡中学校(現山形県立鶴岡南高等学校)から仙台陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校卒業。さらに1921年(大正10年)に陸軍大学校を卒業。陸軍参謀本部勤務や部隊勤務などを経る。

1930年(昭和5年)から2年間を陸軍参謀本部の戦史課で過ごす。この戦史課勤務時代に、小磯國昭東條英機などの「統制派」に属する人物と多く交際し、橋本欣五郎とともに桜会の規約作成にも関与した。この時期の交際が、階級の上下などにこだわらない佐藤の性格形成にも関係したと言われる。また、桜会の活動を巡っては、同じく参謀本部総務部庶務課長だった「皇道派」の牟田口廉也と激しい喧嘩となったことがある[2]。その後も両者の因縁は続き、佐藤は陸軍省人事局への栄転を見込んでいたが、第6師団参謀に任じられたため、参謀人事を管轄していた庶務課長の牟田口が手を回して栄転を阻止したと思い込んでいた上[3]、第6師団参謀に着任した後も、師団長の香椎浩平中将が「皇道派」で、他の参謀にも「皇道派」がおり、自分の言動が逐一東京に報告されていると疑っていた[4]。佐藤は、自分への監視が「皇道派」牟田口からの指示であると考えており、監視をしていた天本良造中佐を“破廉恥行為”をしたとして、陸軍中央に突き出したと主張している[3]。このように、佐藤の牟田口に対する不信感は強まっていき、のちのインパール作戦での抗命事件へと繋がっていく[4]

しかし、牟田口の部下として庶務課に勤務していた富永恭次中佐によれば、ある日庶務課に第6師団の将校に対する内部告発の分厚い匿名文書が届き、富永が内容を確認したが、後ほど牟田口のところに行くと、机の上にあった天本の手紙の筆跡が匿名の内部告発文書と似ていたことから富永が指摘したところ、牟田口の指示で第6師団に出向いて事情を確認することとなった。富永が熊本県に到着したとき天本は出張中であり、そこで応対したのが佐藤であったという。結局、富永の調査で匿名文書の差出人は天本であることが確認され待命処分となったが、佐藤の主張とは異なり、天本は牟田口の指示で監視していたわけではなく、佐藤の告発で中央に突き出されたということもなかった[3]

なお、第6師団参謀時の1936年(昭和11年)に、「皇道派」による二・二六事件が発生し、「統制派」であった佐藤は断固鎮圧を主張した。事件後に行われた「統制派」による「皇道派」への粛清人事で[5]、対立していた牟田口は、計画には全く関与していなかったが、事件に関わっていた青年将校が牟田口を慕ってよく遊びに行っていたことで関与が疑われて、粛清人事の対象になり、 北平駐屯歩兵隊長として外地に左遷されている[6]

張鼓峰事件では第19師団歩兵第75連隊長として参戦。師団長の尾高亀蔵中将と佐藤は陸軍中央や朝鮮軍が不拡大方針のなかで、「劣勢な我軍が受け身の姿勢では勝利は見込めない。敵(ソビエト連邦)が確実に侵攻してくると判断できれば、『後の先』の戦法で敵の出鼻を挫かなければならない」と考えて、1938年7月31日未明に師団長独断で張鼓峰のソ連軍陣地に夜襲をかけ、佐藤の的確な指揮もあって夜襲は成功、ソ連軍は200?300人の遺棄死体と10輌の戦車の残骸を残して撤退した[7]。8月に入ってからはソ連軍が兵力を増強して反撃を開始したが、圧倒的に兵力で勝るソ連軍を相手に第75連隊は激しく抵抗して張鼓峰を守り抜いた。10日以上にも渡った厳しい防衛戦の間、佐藤は笑顔を絶やすがなく、またときには自ら部下兵士の遺体を戦場から担いで運ぶこともあり[8]、その勇名で剛将として名を轟かせることとなった。しかしその代償は大きく、戦闘に参加した1,379人の将兵のうち、戦死者241人、戦傷者467人、死傷者合計708人、死傷率51.3%と参戦した連隊の中で最大の損害を被って壊滅状態となっている[9]。後述の精神鑑定中の面談ではざっくばらんな話をしていた際「俺は東條首相に受けが悪くてね、張鼓峰事件の時も連隊長として派遣され、今度もまた一番悪いところへやらされたよ」と述懐している。
インパール作戦中将時の佐藤「インパール作戦」も参照

1944年(昭和19年)のインパール作戦では、第31師団通称号:烈)の師団長として参加する。このとき、上司の第15軍司令官には、前述のように参謀本部時代に因縁のある牟田口廉也中将が就いていた。

インパール作戦は当初より第15軍司令部内部でも無謀さが指摘されており[10]、佐藤も作戦前から第15軍の会議にて補給の困難を主張しており、裏では牟田口の作戦構想を「笑止の沙汰」と言っていたが、作戦に反対し続けて更迭された南方軍総参謀副長稲田正純少将の後任として着任し、作戦に前向きであった綾部橘樹少将から作戦の是非を聞かれた際には、作戦検討時に行われた最後の兵棋演習に参加していなかったという理由で反対意見を述べず[11]、綾部は、緬甸方面軍や南方軍の決裁をとったのち、1943年(昭和18年)12月30日には参謀次長秦彦三郎中将宛てに作戦認可を求める電文を打電し、作戦決行が決まった[12]

佐藤の任務は、東インドの補給拠点ディマプルからインパールまで伸びる幹線道路(インパール街道)をインパール東方60qにある村落コヒマを攻略して寸断するというものであり[13]、その進撃路には標高3,000mから5,000mの山脈がそびえたち、佐藤は20日分の物資は師団の人力でどうにか輸送できるものの、その後は第15軍からの補給が必須と考えており、作戦直前に師団に訪れた軍司令部後方主任参謀を捕まえると、特に補給に対して念押しして、1日10トンの食糧や物資を軍が責任をもって補給すると約束させた[14]

牟田口は参謀本部が認可した作戦計画にはない、ディマプル攻略とそれを足掛かりとしたインドアッサム州への侵攻を考えており、チャンスがあれば強行するつもりであった。そのため、緬甸方面軍司令官河辺正三中将や佐藤も同席した作戦前の会議で、第31師団参謀長加藤国治大佐が作戦計画通り、「第31師団はコヒマを攻略した後は、同地を確保して敵のインパールへの動きを一切阻塞する」と師団の任務を説明したところ、牟田口は「阿呆!なぜ1個師団すべてをコヒマに止めるか。敵はディマプルに向けて逃げるは必定。なぜこれを追わぬか。お前の仕事はこれを捕捉殲滅することではないか」と叱責している[15]。その牟田口の独走に対し、河辺はあくまでも組織決定を優先するつもりであったが、敢えて牟田口の気勢を削がないよう反論は避け[16]、佐藤も否定することはなかった[17]。さらに牟田口の暴走は続き、作戦開始直前には第31師団司令部に参謀長の久野村桃代少将を派遣し、「コヒマ占領後、引き続きディマプルに突進してもらいたい」と念押ししている[18]

佐藤は、牟田口に対する抗命事件(後述)もあって、作戦に当初から反対であったと強調されることもあるが、第15軍司令部との補給の約束もあって、作戦開始前は作戦に積極的な言動を見せており、作戦開始数週間前からは地下足袋を履いて毎日山中を歩き回って足慣らしを熱心に行い、連絡にやってくる第15軍の参謀をつかまえては、牟田口の構想通り、「コヒマ確保にとどまらず、アッサム州の首都ディマプルまで一気に突入するのが我が師団の本来の役割だ」と怪気炎を上げ、積極性をアピールしていた[17]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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