佐藤尚武
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日本政治家佐藤 尚武さとう なおたけ
参議院議長時代
生年月日1882年10月30日
出生地 日本 大阪府
没年月日 (1971-12-18) 1971年12月18日(89歳没)
出身校東京高等商業学校(現・一橋大学
所属政党緑風会
称号従二位勲一等旭日桐花大綬章
配偶者佐藤ふみ
親族佐藤愛麿(養父)
第2-3代 参議院議長
在任期間1949年11月15日 - 1953年5月2日
天皇昭和天皇
第48代 外務大臣
内閣林内閣
在任期間1937年3月3日 - 1937年6月4日
参議院議員
選挙区青森県選挙区
在任期間1947年5月3日 - 1965年6月1日
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佐藤尚武

佐藤 尚武(さとう なおたけ、1882年明治15年)10月30日 - 1971年昭和46年)12月18日)は、日本外交官政治家林内閣外務大臣第二次世界大戦末期のソ連対日参戦当時の駐ソビエト連邦大使、戦後には参議院議長(第2・3代)等を歴任した。
経歴

弘前藩士で当時大阪府警部であった田中坤六[1]の次男として大阪府に生まれる。同じく弘前藩士で外交官佐藤愛麿(後に在特命全権大使)の養子となる。旧制正則中学校(正則高等学校の前身)卒。1904年(明治37年)、東京高等商業学校一橋大学の前身)全科卒。同専攻部領事科へ入学。一橋では同級生の向井忠晴三井総元方理事長や大蔵大臣を歴任)や福島喜三次(元三井合名理事)と首席を争った[2]。後年、向井に駐米大使を打診したが飛行機嫌いであるとして固辞されている[3]

1905年(明治38年)、外交官及び領事官試験に合格し外務省入省。在ロシア公使館外交官補(のち三等書記官)、ハルビン領事(のち総領事)、在スイス公使館一等書記官、在フランス大使館参事官、在ポーランド公使を歴任した。ロシア革命が勃発した当時はハルビン総領事の職にあり、1917年12月にボリシェヴィキ勢力がハルビンの制圧を図った際には、他のハルビン駐在連合国領事らと領事団を結成して当時の中華民国政府(北京政府)に介入を要請し、中国軍によってハルビンのボリシェヴィキ関係者は排除された[4]。このあとハルビンでは陸軍を中心としてグリゴリー・セミョーノフやドミートリー・ホルヴァート(ロシア語版)といった反革命勢力の人物を擁立する動きがあった[5]。日本は1918年8月からシベリア出兵に踏み切るが、佐藤は外務省関係に多かった「出兵に熱心な者」の一人と評されている[6]

1926年(大正15年)9月8日、駐ポーランド大使のまま国際連盟組織委員会委員に就任[7]1927年(昭和2年)に国際連盟帝国事務局長、1929年(昭和4年)のロンドン海軍軍縮会議では事務総長を勤め、1930年(昭和5年)、駐ベルギー特命全権大使に就任する。このベルギー大使在任時の1931年9月、国際連盟第12回総会に出席中満洲事変勃発の報が入り、直後の国際連盟第65回理事会で佐藤は中国の理事からの非難に直面することとなる[8]。続く第66回理事会は第一次上海事変のあとに開かれ、ここで佐藤は世界からの非難を一身に受けながら日本の立場の説明をおこなうとともに、政府に対しては自制を訴えた[8]。しかし日本は満洲国を承認、1933年(昭和8年)の国際連盟総会でリットン調査団による報告書の採択の際は、代表団の一員として首席代表松岡洋右や駐フランス大使長岡春一とともに議場を退席した。同年、駐フランス特命全権大使。1935年(昭和10年)、入省30年を迎えたのを機に辞任を申し出、翌年退任する[8]

1937年(昭和12年)、日本への帰国早々林内閣で外務大臣に就任。佐藤は入閣の条件として、平和協調外交、平等の立場を前提とした話し合いによる中国との紛争解決、対ソ平和の維持、対英米関係の改善の4つを林首相らに提示し、これを確認した上で就任を受諾した[8]。だが、就任直後の帝国議会で、持論の中国との話し合いを説き、戦争勃発の危機は日本の考え方次第であると述べた内容が、軍部や右翼から「軟弱外交」と非難を浴びることになった。そうした状況でも関東軍が推し進めた華北分離工作に反対し、中国との対立を避けるためにその具体策として日華貿易協会会長児玉謙次を団長とする経済使節団を中国に派遣した。使節団の一行は、3月12日に神戸港を出帆して中国に渡り、?介石と会見し、中国政府要人及び経済人と26日まで幾度か会合し、協議した。しかし林内閣の総辞職とともに退任。その直後に盧溝橋事件が起きた。

1938年(昭和13年)9月10日、日中戦争への対処を行うために新設された外交顧問に有田八郎とともに就任するが、対中国機関問題が擱座したため同年9月29日に辞任[9]1940年(昭和15年)、駐イタリア特命全権大使。1941年(昭和16年)、外務省外交顧問。1942年(昭和17年)、東郷茂徳外務大臣に請われ、建川美次の後任として駐ソビエト連邦特命全権大使就任。大使補佐には守島伍郎が充てられる体制が採られた[10]1946年(昭和21年)、枢密顧問官佐藤尚武(1956年)

1947年(昭和22年)4月、第1回参議院議員通常選挙青森県選挙区から出馬し参議院議員に当選。以後、第3回第5回通常選挙で当選し、連続3期務めた。参議院議員時代に緑風会の結成に参加した。阿波丸事件において賠償権放棄の決議案提出に提出者の1人として関わるが、その内容には批判的だった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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