佐藤 哲三郎(さとう てつさぶろう、1889年〈明治22年〉5月5日 - 1958年〈昭和33年〉12月31日)は、日本の洋画家。
略歴の三男として出生[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10]。
1907年(明治40年)3月に新潟中学校を卒業、1912年(明治45年)3月に東京美術学校西洋画科を卒業[4][5][7][8][10][11]。
1912年(明治45年)の第6回文展で『化粧』により三等賞を受賞[4][5][6][7][8][9][10][11][12]、1913年(大正2年)の第3回東京勧業展覧会で『紅き燈』により二等賞を受賞[13]。
二科会の創立会員となるが、文展、帝展にも出品し続けた[4][9][10][11]。
1920年(大正9年)3月に東京美術学校の同期の萬鉄五郎、神津港人、熊岡美彦、片多徳郎、斎藤素巌らと14人で美術団体の四十年社を結成[8][10][14]、1929年(昭和4年)2月に青山熊治
らと第一美術協会を創立[4][5][7][8][9][10][11][12]。太平洋戦争のため新潟市に疎開、戦後しばらく新潟県展の審査員を務めるなど郷土文化の向上に貢献した[8][9][15][注 1]。
1958年(昭和33年)12月31日夜に喘息のため死去、葬儀は東京都武蔵野市吉祥寺の自宅で執り行われた[17]。
画風は穏やかで落ち着いた写実的なものであった[6][9][10]。