佐藤光留
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

佐藤光」あるいはバスケットボール選手の「佐藤ひかる」とは別人です。

佐藤 光留
2017.07.30 撮影
プロフィール
リングネーム佐藤 光留
本名佐藤 弘明
ニックネームアキバ系パンクラシスト
全身変態プロレスラー
王道の変態
メイド服ファイター
Uの末裔
身長174cm
体重92kg
誕生日 (1980-07-08) 1980年7月8日(43歳)
出身地岡山県岡山市
所属パンクラスMISSION
スポーツ歴総合格闘技
レスリング
相撲
砲丸投げ
トレーナー鈴木みのる
デビュー2000年2月27日
テンプレートを表示

佐藤 光留(さとう ひかる、1980年7月8日 - )は、日本男性プロレスラー総合格闘家。本名:佐藤 弘明(さとう ひろあき)。[1]岡山県岡山市出身。パンクラスMISSION所属。岡山学芸館高等学校卒業。血液型O型。

弟はindigo la Endドラマー、佐藤栄太郎。
来歴

中学では陸上部に所属し砲丸投を行う一方で、3年時に相撲で県3位に入賞。高校ではレスリングで3年時に、フリースタイル/グレコローマン70kg級で全国大会3位に入賞した。

美濃輪育久の試合を見て触発され、数々のアマチュア大会を経て1999年5月に名古屋で行われた入門テストに合格しパンクラスに入門した。

2000年2月27日、パンクラスデビュー戦で渡辺大介と対戦し判定負け。

2001年5月5日、パンクラスで長南亮と対戦し判定勝ち。

2003年9月23日、DEMOLITIONで行われた「DEMOLITION MIDDLE WEIGHT 4MEN TOURNAMENT」1回戦で外山慎平にTKO勝ち。

2004年1月18日、DEMOLITIONで行われた「DEMOLITION MIDDLE WEIGHT 4MEN TOURNAMENT」決勝で中村大介に判定勝ち、優勝を果たした。この試合は両者の怪我の影響で2度延期されていた。試合後、リング上でパンクラス無差別級王者ジョシュ・バーネットに宣戦布告した[2]

2005年1月30日、第2回プロ・アマオープン キャッチレスリングトーナメント100kg未満級に出場。決勝で内藤征弥に判定勝ちし、優勝を果たした。

2007年11月25日、『格闘王国LIVE2007』でプロレスリングElDoradoの豪と総合格闘技ルールで対戦し、引き分けに終わる。12月22日、パンクラスでジョシュ・バーネットとキャッチレスリングルールで対戦し、チョークスリーパーで一本負け。

2008年3月10日、パンクラスismから、鈴木みのるが所属するパンクラスmissionに移籍。プロレスのリングへの参戦を表明し、5月24日のDDTプロレスリングハードヒットでデビューした。若手時代にネオブラッドトーナメントでバックドロップスパイン・バスターを繰り出したこともあり、元々プロレス志向が強かった。

2009年11月29日、DDT後楽園大会においてUWA世界6人タッグベルトを獲得、自身初となるプロレスタイトルとなった。

2010年2月28日、初の自主興行でもある『佐藤光留デビュー10周年記念興行「BEST SNIPE ?変態狙撃祭り」』を新宿FACEにて開催[3]。7月3日、ZST BATTLE HAZARD 04で渋谷修身の引退ラストマッチで対戦し、ストレートアームバーで一本勝ち[4]。7月25日、全日本プロレスに初出場し『2010 ジュニア・ヘビー級リーグ戦』の開幕戦にて大和ヒロシを相手に投げっぱなしジャーマンにより勝利。メイド服を投げ捨てデッド・オア・アライブの試合を体現した[5]。9月29日、紅白プロレス合戦にて第2代世界佐藤級王者となった[6]。9月30日、中澤マイケルとのコンビによる『変態團』が、自主興行である『変態團興行 ?R指定だよ、全員集合?』で一夜限りの復活。バラモン兄弟を相手に変態的な試合を尽くすもバラモン・シュウのゾンビキングにより敗戦。だが興行は大「変態」コールで包まれる大盛況となった[7]。10月7日、DDTプロレスリングがプロレス業界初の試みであるDDT48総選挙を行い、498票を集め2位となった。なお、1位の男色ディーノとは14票差であった。9月30日に行われた「変態團」興行での実績とUstream放送「佐藤光留の愛LOVE寂聴クリニック」での大喜利などによる選挙活動が報われた。目的の1位特典のKO-D無差別級挑戦権は手に入れそこなったが2位入選と意気込みを評価され10月24日に飯伏幸太とのシングルの機会を与えられこれに勝利、その後のアピールが認められたため11月14日にKO-D無差別級挑戦が決まった[8]。11月14日、DDT大阪大会にて開催されたKO-D無差別級選手権試合において、王者HARASHIMAに勝利し、ベルトを獲得するが、11月28日の後楽園ホール大会にてディック東郷に敗れ、ベルトを失った[9]

2011年8月28日、DDT後楽園大会にて師匠である鈴木とシングルで対決を行った。「僕はパンクラスで生まれましたが、育ったのはここDDTのリングです!僕のホームリングで一騎討ちしてください!」と対戦要求しての試合はゴッチ式パイルドライバーで鈴木が勝利した。鈴木からは「パンクラスにいたときよりよっぽど良くなったじゃねぇか。DDT好きなんだろ?大事にしろよ」と温かい言葉をかけられた後、ガットショットを喰らい投げ捨てられた[10]

2011年9月29日、DDTプロレスリングがおこなった第2回DDT48総選挙にて、2位の飯伏と169票差をつけての堂々の一位となる。賞金の100万円は「コイツだけには負けたくないって人が選挙中にケガをしました。次に闘うとき、ケガのせいで負けたとか言われたくありません!二度と同じところをケガしてほしくないので、この100万円は返還してその人の治療費に充ててください!」とDDTに返還。その後DDT社長である高木三四郎に「総選挙一位になったご褒美として城をください」と直訴し、DDTのブランドであった「ハードヒット」の権利を譲り受ける[11]

2012年1月28日、『PANCRASE 2012 PROGRESS TOUR』にて約3年ぶりにパンクラスのリングに復帰。第11代K.O.P.決定1DAYトーナメントに出場するも一慶相手に判定負けで一回戦で敗退した[12]。3月22日、佐藤自身のプロデュース興行であり城となる『ハードヒット ?月になる男達?』を開催。「現在進行形のU」として田村潔司も来場する中行われた本興行にて、後輩であり当時パンクラス社長だった川村亮と対戦。満員の観客の中、試合は川村のグラウンドからの掌底連打でレフェリーストップとなった[13]

2014年1月、DDTプロレスリングとのレギュラー契約を満了。その後もDDTには鈴木の参戦時出店するパイルドライバーの売店に現れることもある。同年2月、全日本プロレスのユニット「エボリューション」に加入。一時離脱はあったものの、諏訪魔に次ぐ古参である。

2016年10月2日、「ハードヒット?Best of super grapplers」にて鈴木秀樹と対戦[14]

2020年12月27日、佐藤光留デビュー20周年記念試合としてグラップリングルールで鈴木みのると対戦し、逆エビ固めで敗北[15]

2023年3月1日開催の『ジュニア夢の祭典 ?ALL STAR Jr. FESTIVAL 2023?』では第4試合6人タッグマッチに出場[16]童貞を殺すセーター姿で入場し(3人とも私物[17])、田口隆祐今成夢人と共に変態トリオを結成した[17]。8月26日、富士通スタジアム川崎で自主興行「変態は夢を見た」を開催。メインイベントでTwitter上で交流のあった新日本プロレスのエル・デスペラードとの時間無制限一本勝負でのシングルマッチを行った。12月27日、TAKAみちのくが提唱したインディペンデント・ワールド・ジュニアヘビー級王座決定1DAYトーナメント「史上最大のインディJr.祭」に参戦。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:125 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef