佐藤優_(外交官)
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この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。ご存知の方は加筆をお願いします。(2020年10月)

佐藤 優

誕生 (1960-01-18) 1960年1月18日(64歳)
日本 東京都
職業作家
同志社大学神学部客員教授
静岡文化芸術大学招聘客員教授
国籍 日本
最終学歴同志社大学学士修士
活動期間1990年代 -
配偶者あり
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佐藤 優(さとう まさる、1960年[1]昭和35年〉1月18日 - )は、日本作家、元外交官同志社大学神学部客員教授静岡文化芸術大学招聘客員教授学位神学修士同志社大学1985年)。

在ロシア日本国大使館三等書記官[2]外務省国際情報局分析第一課主任分析官[1]外務省大臣官房総務課課長補佐を歴任。その経験を生かして、インテリジェンスや国際関係[3]、世界史、宗教などについて著作活動を行なっている。
経歴
学生時代

東京都渋谷区生まれ、埼玉県大宮市(現:さいたま市)育ち。大宮市立大砂土小学校大宮市立植竹中学校卒業。幼少時は日本キリスト教会大宮東伝道所に通っていた。

1975年埼玉県立浦和高等学校入学。高校時代は夏に中欧東欧ハンガリーチェコスロバキア東ドイツポーランド)とソ連(現在のロシア連邦ウクライナウズベキスタン)を一人旅する。予備校での1年間の浪人生活を経て、同志社大学神学部に進学[注釈 1]。学部1回生で正式に洗礼を受け、クリスチャンプロテスタントカルヴァン派)になった。卒業論文のタイトルは「ヨセフ・ルクル・フロマートカ研究『破壊と復活』『一九四五年』を中心に」であった。

高校2年生から大学2回生まで日本社会主義青年同盟(社青同)の同盟員であった。なお、佐藤が社青同の同盟員時代に同団体委員長を務めた山崎耕一郎2017年11月24日に死去し、翌2018年2月18日に開会された「山崎耕一郎さんを偲ぶ会」に佐藤は追悼文を寄せ、「社青同時代の活動、学習は、人生の基盤を作りました。そのことは、外交官時代も、職業作家になった現在も、いつも感じています」と記している。

その後、同大学大学院神学研究科博士前期課程を修了し、神学修士号を取得した。研究のテーマは「チェコスロバキアの社会主義政権とプロテスタント神学の関係について」であった。特に学部2回生の頃から、チェコ神学者ヨセフ・ルクル・フロマートカに強い興味を持ち、チェコに留学する目的として、外務省の専門職員採用試験を受験する。大学院修士論文は「ヨセフ・ルクル・フロマートカの共産主義観 現代東ヨーロッパにおけるプロテスタント神学の展開についての一考察」。
外務省時代

大学院修了後はチェコスロバキアの首都プラハにあるカレル大学に留学して本格的にフロマートカに関する研究をするという希望を持っていたが、フロマートカは反ソ主義的な神学者であり、フロマートカの研究を、冷戦下で「科学的無神論」を国是とするチェコスロバキアで行うことは事実上不可能であったため一度は断念した。しかし、外務省職員(専門職)になればチェコ語研修を名目にチェコスロバキアに行けると考え、1985年4月にノンキャリアの専門職員として外務省に入省(2度目の外務省専門職試験受験で合格した)。しかし、外務省から指定された研修言語は希望していたチェコ語ではなくロシア語であり、5月に欧亜局(2001年1月に欧州局アジア大洋州局へ分割・改組)ソビエト連邦課に配属された。なお、当時のソ連課長は野村一成、首席事務官は宮本雄二(後の駐中華人民共和国大使)であった。

1986年夏にイギリスの首都ロンドン郊外ベーコンズフィールドの英国陸軍語学学校(Defence School of Languages)で同期の武藤顕(キャリア、2014年から欧州局大使[4])とともに英語やロシア語を学んだ後、1987年8月末にモスクワ国立大学言語学部にロシア語を学ぶため留学した。その中で哲学部科学的無神論学科の講義にも参加するようになった。当時のソ連では「科学的無神論」という国是からキリスト教や各宗教に関する研究を行っていた。例として「キリスト教終末論の諸類型とその階級的特質」「啓蒙主義思想に対するプロテスタント神学者の批判とその問題点についての検討」「ニコラウス・クザーヌスの全一性概念に対する批判的検討」「ブルトマンによる聖書の脱神話化仮説の学説史的意義とその批判」「解放の神学カトリック教会の教権制度の矛盾」など、同志社大学で学んだキリスト教を社会主義の立場から批判、検討するような内容が多かった。ちょうど1988年ロシア正教導入1000年紀にもあたっていたこともあり、ソ連では宗教への理解が進んでいた時期でもあった。またロンドンでは、亡命チェコ人の古本屋店主夫妻とも親しくなり、当時チェコスロバキアなど東欧諸国では一般での発売や閲覧が禁止されていた神学や宗教関係の書物を手に入れることもできた。当時チェコスロバキアなどの東欧社会主義国は外貨節約のため、国内では流通させたくない神学関係や反共的な書物を、西側諸国の最新の科学技術の書物や辞書・辞典と物々交換していた。


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