さとう しんのすけ
佐藤 信之助
生誕佐藤義一[1]
1908年(明治43年)1月30日[2]
日本・三重県桑名市船場町316[2]
死没1981年(昭和56年)12月22日(73歳没)[3]
日本・三重県桑名市[3]
出身校慶應義塾高等部[2]
職業実業家
配偶者九鬼ふさ
子供
長男:佐藤信義[4]
二男:佐藤尚義[5]
三男:佐藤孝義[4]
長女:佐藤八重子[4]
二女:佐藤道子[4]
親父:佐藤信之助[4]
母:ゑき[4]
栄誉勲二等瑞宝章[3]
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佐藤 信之助(さとう しんのすけ、1908年(明治43年)1月30日[2][6] - 1981年(昭和56年)12月22日[3])は、日本の実業家。サンジルシ醸造の社長、会長と中京テレビ放送社長を務めた[3]。 1908年(明治43年)1月30日に三重県桑名市船場町316で[2]父・初代佐藤信之助、母・ゑき[注 1]の長男として生まれ[4]、佐藤義一と名付けられた[8]。旧制富田中学校を経て[9]、1930年(昭和5年)3月に慶應義塾高等部卒業し[2]、大蔵省醸造試験所で1年間醸造学を学んだ後[10]、家業の佐藤信之助商店に入って[6]味噌・?油製造業に従事した[2]。 早くから若手実業家として桑名財界で活躍し[11]、桑名電軌と桑名土地建物の取締役に就任し[12]、1936年(昭和11年)6月22日に桑名瓦斯の監査役にも就任した[13]。 1937年(昭和12年)1月に先代の死去により家督を相続し[10]、同年3月4日に佐藤義一から「佐藤 信之助」へ氏名を変更した[1]。同年5月22日に桑名電軌の取締役に就任した[14]。 1938年(昭和13年)5月に三重県醤油同業組合桑名支部長に就任した[10]。 食糧統制の開始に伴い、その統制に当たる三重県醤油味噌工業組合異議採決委員や同組合統制委員を経て、1941年(昭和16年)2月に同組合桑名地区長、同組合理事長に就任した[10]。そして、同年11月に発起人になって、国策としての醤油の配給統制を行うことを目的とする「三重醤油味噌統制会社」を設立し、社長に就任した[15]。これらを歴任し、?油味噌の配給統制に尽力したとされていた また、この間の1940年(昭和15年)8月25日に桑名市警防団長に就任した[5]。 その他、大政翼賛会三重県支部常務委員や三重県翼賛壮年団理事・総務、桑名市常会委員なども努めた[5]。 1951年(昭和26年)4月11日にサンジルシ醸造の前身の「株式会社佐藤信之助商店」を設立して法人化し[16]、同社の社長に就任し[2]、1973年(昭和48年)まで務めた[3]。 1954年(昭和29年)に近畿東海放送相談役に就任した[17]。 1958年(昭和33年)2月1日の[18]東海テレビ放送の設立に参画して専務に就任し[19]、1962年(昭和37年)11月まで務めた[6]。 1961年(昭和36年)4月に桑名商工会議所会頭に就任し、6期18年務めた[20]。 1963年(昭和38年)12月7日に「長島観光開発」が設立された際には副社長に就任し[21]、1974年(昭和49年)に社長に就任し[22]、1977年(昭和52年)まで務めた[3]。 1968年(昭和43年)3月に中京ユーエッチエフ・テレビ(後の中京テレビ放送)の副社長に就任し[23]、初代社長を務めた[24]鈴木亨市が1969年(昭和44年)7月30日に死去したことに伴い[25]、同年8月7日に「中京ユーエッチエフ・テレビ」社長に就任し[25]、1981年(昭和56年)6月24日まで中京テレビ放送社長を務め[26]、同日から[26]会長を務めた[6][27]。
経歴・人物