佐藤一斎
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佐藤一斎像(渡辺崋山筆)

佐藤 一斎(さとう いっさい、明和9年10月20日1772年11月14日[1]- 安政6年9月24日1859年10月19日))は、美濃国岩村藩出身の儒学者は坦(たいら)[1]通称は捨蔵[1]。字は大道[1]は一斎のほか、愛日楼[1]、老吾軒。
生涯

明和9年10月20日(1772年11月14日)に佐藤信由の次男として、江戸浜町(中央区日本橋浜町)の岩村藩邸下屋敷内で生まれた[1]。生家は佐藤方政の子孫の系と伝えられ、代々藩の家老を務める家柄だった。一斎も寛政2年(1790年)より岩村藩に仕え[1]、藩主松平乗薀(のりもり)の三男・乗衡(のりひら)の近侍となるが[1]、翌年に免職となる[1]。その後は大坂に遊学し、皆川淇園中井竹山に学んだ[1]

寛政5年(1793年)江戸に戻って林簡順の門下となる[1]。間もなく簡順が没し[1]、乗衡が公儀儒官である林家に養子として迎えられ、当主(大学頭)として林述斎と名乗ると、一斎は述斎の門人として留まった[1]文化2年(1805年)には塾長に就き[1]、述斎と共に多くの門弟の指導に当たった。

儒学の大成者として公に認められ、天保12年(1841年)に述斎が没したため[1]、昌平黌の儒官(総長)を命じられ[1]、官学の総帥として重きをなした[1]朱子学を専門としつつも、中井竹山の指導によって陽明学も修め、学問仲間から尊敬をこめて「陽朱陰王」と呼ばれた[1]。門下生は3,000人と言われ、一斎の膝下から育った弟子として、山田方谷佐久間象山渡辺崋山横井小楠若山勿堂池田草庵東沢瀉吉村秋陽安積艮斎中村正直林梁大橋訥菴、河田藻海、竹村梅斎、河田迪斎、山室汲古、北條悔堂、森光厚、森光福、楠本端山など、いずれも幕末に活躍した英才が多数いる[1][2]。同門の友人には松崎慊堂がいる。将軍侍医の杉本宗春院とは極めて親しかった。

また、一斎は常に時計を持ち、時間厳守を第一とする厳格な性格の持ち主であった。だが「蛮社の獄」では、無実の罪で窮地に陥った渡辺崋山を擁護する毅然とした対応を取らなかったので、後々(特に明治以降)「言行不一致」と批判されることとなった。

安政元年(1854年)の、日米和親条約の締結交渉では、大学頭・林復斎(述斎の六男)を補佐している。吉田松陰玉木文之進への手紙の中で「林家、佐藤一斎等は、至って兵事をいふ事を忌み、殊に西洋辺の事共申候得ば、老仏の害よりも甚しとやら申される由」と書いて、西洋嫌いに失望している[3]


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