佐藤まさあき
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佐藤正明 (曖昧さ回避)」あるいは「佐藤正彰」とは別人です。

佐藤 まさあき
本名佐藤 雅旦
生誕1937年9月15日
日本大阪府大阪市西淀川区
死没 (2004-03-11) 2004年3月11日(66歳没)
日本千葉県
国籍 日本
職業漫画家
活動期間1955年 -
ジャンル劇画
代表作『黒い傷痕の男』、『野望』、『影男シリーズ』、『堕靡泥の星
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佐藤 まさあき(さとう まさあき、1937年[1]9月15日 - 2004年3月11日[2][3])は、日本漫画家実業家。本名:佐藤雅旦(読み同じ)。貸本漫画時代に劇画という分野を確立した劇画工房のメンバーであり、ピカレスク漫画の第一人者。劇画界の代表的人物の一人。
来歴 

大阪市西淀川区に生まれる。1944年夏に父の実家のある愛知県祖父江町疎開1945年6月15日に空襲で自宅が全焼し、父が死去したため、そのまま祖父江町で育った[4]1947年手塚治虫の『新宝島』に衝撃を受け、手塚の模写で漫画を描き始める[5]。中学生の頃から『漫画少年』に漫画の投稿を始めて、『毎日中学生新聞』に入選。1951年に会員数約70名の漫画研究会のあけぼの会を主宰し、機関誌『新天地』を発行した[6]。1951年秋に母が死去し、姉の嫁ぎ先の大阪で生活するようになる。復讐のドラマが得意という佐藤の作風は、このときの義兄の処遇により形成されたものだという[7]

中学卒業後に祖父江町へ戻り、愛知県一宮市の印刷所に勤務する傍ら漫画を執筆。1955年、印刷会社を退職して大阪へ転居[8]。同年、大阪の貸本漫画出版社、日の丸文庫・八興から描き下ろし単行本『最後の流星投げ』でデビューし、以後、単行本を月に1冊のペースで出して貸本漫画の世界で活躍[9]ニヒルな主人公を描いたハードボイルドもので人気を博す。

1959年辰巳ヨシヒロさいとう・たかをらと共に劇画工房を結成し、上京。劇画ブームの急先鋒に立つ。全日本劇画研究会を組織し機関誌『劇画界』を発行。募集した会員は約400人になった[10]

劇画工房の解散後、さいとう・たかを、川崎のぼる南波健二らと新・劇画工房に参加するも発足直後に解散。1959年、山梨県の貸本組合で佐藤の作品は「主人公がアウトローであり暴力を肯定的に描いている」との理由で不買運動の対象に指定される。貸本出版社から有害漫画家として干され、漫画の仕事を失うが[11][12]、新規に貸本出版業界に参入してきた高橋書店がそれらの事情を知らずに佐藤に執筆を依頼。そこでスマッシュヒットを飛ばす。

1962年桜井昌一と佐藤プロダクションを設立。漫画単行本や劇画短編誌の出版活動を行う[13]。桜井が抜けた後は、実兄である記本隆司がマネージャーを担当した[14]。佐藤プロでは佐藤や水木しげる平田弘史の描き下ろし単行本を出した他[15]楳図かずお花村えい子、新城さちこを起用して少女漫画短編誌『花』。ありかわ栄一南波健二ら若手のアクション短編誌『モーゼル96』を出版[16]。貸本屋は急減し、貸本屋向けの売上では経営が維持できなくなり、1965年取次を通して一般書店の流通に進出して『劇画全集』をスタートした[17]1966年には新書判単行本シリーズ『佐藤まさあき劇画選集』を始める[18]

1967年、虫プロ『COM』に読切り短編『猫』を執筆、高い評価を得る。同年、『週刊少年マガジン』に『でっかい奴』(原作:福本和也)を連載開始[19]。さらに小学館ボーイズライフ』を連載し、『ヤングコミック』『プレイコミック』『女性自身』『漫画ゴラク』などからの依頼が殺到して量産が始まる。執筆の場が貸本漫画業界から大手出版社となり、原稿料も高騰[20]。さいとう・たかをと劇画界を二分する大物劇画家として名を馳せた[21]

1972年、呪われた出自を持つレイプ魔の物語『堕靡泥の星』の連載を開始、映画化もされる。1974年鎌倉市に家の中に滝がある豪邸を建築[22]。成功漫画家の豪邸伝説の中でも特筆すべきエピソードとなった[23][24]1975年、『若い貴族たち』が東映で志穂美悦子主演の『若い貴族たち 13階段のマキ』として映画化、1977年、『野望』が天知茂主演でテレビ朝日により連続テレビドラマ化された。漫画の量産と税金に追われる生活に疲れたことから佐藤プロダクションを解散し、佐藤プロのビルも売却して、1979年新宿区歌舞伎町でパブレストラン劇画館を開業し、ささやかな漫画家生活での第二の人生を送る計画をするが、レストランは不入りで翌年閉店[25]。1980年4月に江古田に喫茶店劇画館をオープンして漫画家生活を再開するも、仕事は激減して発表誌も休業以前から格落ちした状態に陥る[26]1980年代は趣味と実益を兼ねてGYE企画の名前でビニ本の出版も手掛け、ヌードモデルの調達やカメラマンも行ったが、ビニ本界の元締めの逮捕により撤退[27]。全ての連載が打ち切りになった中で再出発を賭けて佐藤プロで再び出版事業を再開するも返品の山だった。1984年に引退を覚悟して出版した『堕靡泥の星』の単行本がヒットし、『プレイコミック』での連載、OVA化などで窮地を脱する[28]。特に1988年から発売されたOVAは全5巻で、レンタルも含めて7万5千本のセールスとなり印税収入で家を購入できたという[29]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}しかし、そのOVAセールスも残酷で陰惨な内容や動画の粗さなどがアニメ作品としては批判・酷評もされて長期には至らず、一時的にマニアックなファンの間で話題になった程度に留まった[独自研究?]。1989年からは『堕靡泥の星』小説版を執筆するが、1992年末に脳梗塞と突発性心筋症を発症[30]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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