佐竹義政
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佐竹義和」あるいは「佐竹義真」とは別人です。

 凡例佐竹義政
時代平安時代後期
生誕不詳
死没治承4年11月4日1180年11月29日[1]
別名忠義[2][3]、太郎[4][2][1]
戒名蓮心[2]
官位常陸大掾[2]
氏族佐竹氏
父母父:佐竹昌義[注 1]、母:平扶幹の娘[注 2][2]
兄弟義政、義宗、岡田親義、隆義昌成、国分義弘、義心[2][5]
子国分義弘?、義衡、片岡常春の妻
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佐秩B義政(さたけ よしまさ)は、平安時代後期の武士常陸国武士団佐竹氏の一族。実名は『吾妻鏡』では「義政」[1]、『平家物語』系軍記では「忠義」とある[6]
略歴

尊卑分脈』や久保田藩の作成した系図類には佐竹氏初代昌義の長男と見える[2][7][注 1]。元は佐竹氏の本拠地である久慈郡太田に住んだが、外戚の吉田大掾氏が断絶したためその跡を襲って府中に居を移した。保元の乱平治の乱では弟の隆義とともに平清盛に属して戦い、常陸七郡を領したという[4][2]

治承4年(1180年10月富士川の戦い平家軍を撃退した源頼朝は余勢を駆って上洛の軍を起こそうと考えたが、三浦義澄千葉常胤上総広常らは義政やその甥秀義ら常陸佐竹氏がいまだ服従していないことを持ち出してこれを諫めた[8]。翌11月、頼朝は佐竹氏征伐のために常陸国府(現石岡市総社)に進駐した。秀義は父・隆義がいまだ上方で平家方にあることを理由に金砂城に籠もったが、義政は縁者だった上総広常を通じて帰服を申し出た。義政は国府より5km北ほどにある大谷橋(現小美玉市大谷)上で広常と面会したが、頼朝の命を受けていた広常にすぐさま討たれてしまった[1][9]。一方『源平闘諍録』によると、佐竹忠義(義政)は下野国足利俊綱とともに頼朝への反抗を企てたため、梶原景時によって大谷橋で斬られたとされている[6]

文治5年(1189年奥州合戦藤原泰衡方に組した武士の中に義政の子と称する者たちがおり、彼らは敗戦後に行方をくらましたという[10]。なお諸系図で弟とされる国分義弘を義政の子とする系図もある[10]
系譜

父:
佐竹昌義

母:平扶幹の娘

妻:不詳

男子:国分義弘?

男子:義衡

女子:片岡常春


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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