凡例佐竹義厚
佐竹義厚像(天徳寺蔵)
時代江戸時代後期
生誕文化9年7月17日(1812年8月23日)
死没弘化3年9月8日(1846年10月27日)
改名雄丸、徳寿丸(幼名)、義厚
別名次郎(通称)
墓所秋田県秋田市泉三嶽根の天徳寺
官位従四位下侍従、左近衛少将、右京大夫
幕府江戸幕府
主君徳川家斉→家慶
藩出羽久保田藩主
氏族佐竹氏
父母佐竹義和、北川氏娘・玲光院
兄弟義厚、義尹
佐秩B義厚(さたけ よしひろ)は、江戸時代後期の大名。出羽国久保田藩10代藩主。通称は次郎。官位は従四位下侍従、左近衛少将、右京大夫。目次 9代藩主・佐竹義和の長男。母は北川氏(玲光院)。幼名は雄丸、徳寿丸。 文化12年(1815年)9月17日、父・義和の死去により家督を相続する。なお、父死亡時に小野岡義音(大和)は、義厚が幼少のために岩崎藩主家である佐竹壱岐守家から継嗣を迎えることを主張するが、疋田厚綱が断固として義厚を擁立したために藩主となった。 文政7年(1824年)12月16日、従四位下侍従、右京大夫に叙任する。天保7年(1836年)12月5日、幕府に対し、左少将任官の内願を提出する。もともと久保田藩佐竹家の当主は左少将に任官できた。しかし、義真・義明・義敦・義和と4代の当主は早世したために任官できずにいた。そのため、義厚は昇進を望んだのである。天保9年(1838年)、再び左少将任官の内願を提出する。同年12月、左少将に昇進する。この昇進のため、2,877両余りを出費した。弘化3年(1846年)9月8日に死去、享年35。墓所は秋田市の天徳寺。 名君と謳われた父の時代に藩財政は再建していたが、義厚が幼年で藩主になったこと、義和が早世したこと、さらに義厚の時代には凶作などの天災が相次いで発生したため、借金が44万両にも膨れ上がるという事態となっていた。このため、成長した義厚は藩財政再建のため、質素倹約や家臣団の不正取締り、男鹿半島東部の湖岸地帯の開拓、六郷村の開発などの藩政改革を行なったが、この頃から出没していた異国船 子女は2男3女 文政10年(1827年)刊行の須原屋版の江戸武鑑に見られる義厚の主要な家臣は以下のとおり。なお、掲載内容は文政10年以前の可能性が高い。 なお、参考文献「編年江戸武鑑・文政武鑑5」では文政9年から文政12年まで掲載しているが、家臣情報は年により改訂していないこともあるので、前年と比較して面子が変わっている年を掲載。武鑑の掲載都合により実際の藩職名と相違する場合がある。また、実際の武鑑には【家老など】という項目はないが、久保田藩以外でも加判職には項目名をつけない。 【用人】 【御城使】
1 経歴
2 系譜
3 義厚の治世中の主要家臣
4 偏諱を受けた人物
5 参考文献
経歴
系譜
父:佐竹義和(1775-1815)
母:玲光院 - 北川氏
正室:鋭(1812-1840) - 前田利幹の娘
継室:素姫(ただひめ) - 月鏡院、池田斉稷の長女
側室:松仙院 - 松操院、阿部氏
次男:佐竹義睦(1839-1857)
側室:福島氏
生母不明の子女
長女:佳子 - 伊達宗徳継室
義厚の治世中の主要家臣
小介川正左衛門、町田大之進、中安主典、長瀬平右衛門、平沢為八(定府)
関口半八、田中伊織、田代左記(定府)、安田五郎兵衛(定府)
偏諱を受けた人物
渋江厚光(藩家老)
多賀谷厚孝(久保田藩檜山所預、佐竹義許の実父)
疋田厚綱(家臣)
参考文献
家臣人名事典編集会「三百藩家臣人名事典1」(新人物往来社、1987年)
「編年江戸武鑑・文政武鑑5」(柏書房)
表
話
編
歴
佐竹氏久保田藩10代藩主 (1815年 - 1846年)
佐竹義宣1602-1633
佐竹義隆1633-1672
佐竹義処1672-1703
佐竹義格1703-1715
佐竹義峯1715-1749
佐竹義真1749-1753
佐竹義明1753-1758
佐竹義敦1758-1785
佐竹義和1785-1815
佐竹義厚1815-1846
佐竹義睦1846-1857
佐竹義堯1857-1871
廃藩置県
更新日時:2019年12月31日(火)05:37
取得日時:2020/04/23 13:13