佐村河内守
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佐村河内 守
生誕 (1963-09-21) 1963年9月21日(60歳)[1]
出身地 日本 広島県佐伯郡五日市町(現・広島市佐伯区[2]
学歴崇徳高等学校[3]商業科[4]卒業

佐村河内 守(さむらごうち まもる、1963年〈昭和38年〉9月21日[5] - )は、日本の作曲家広島県出身。旧芸名:速瀬守(はやせ まもる)。
概要

1990年代、中途失聴とされる聴覚障害がありながら『鬼武者』のゲーム音楽や「交響曲第1番《HIROSHIMA》」などを作曲した音楽家として脚光を浴びたが、2014年2月5日、自作としていた曲がゴーストライターの代作によるものと発覚[6](「ゴーストライター問題」の項を参照)。聴覚障害の程度についても疑義を持たれており[7]、ゴーストライターを務めた作曲家の新垣隆は、「佐村河内は18年間全ろうであると嘘をつき続けていた」と『週刊文春』に掲載された独占手記で主張した[8]。横浜市による再検査では中度の感音性難聴と診断され、障害者手帳交付の対象となるレベルではなかったため、障害者手帳を横浜市に返納した[9][10]

2016年に1点、2017年に1点、商業作品の依頼を受け、自分自身で完成させた。これら2点は2018年にメジャー・レーベルから発売された。2021年2月にも依頼を受けた2点の作品を、自分自身の手で完成させている(詳細は#佐村河内守本人の作品)。
経歴

1963年(昭和38年)9月21日被爆者健康手帳を有する両親の元、広島県に生まれた[11]崇コ高校では演劇部に所属。卒業後は京都に行き、東映京都撮影所で俳優養成所に通いながら、大部屋役者としての生活を始める。後に悪役商会に入ると言って東京に出る[12]

悪役商会に加入後、1984年から1985年にかけて「速瀬 守」の芸名でフジテレビ「月曜ドラマランド」枠の単発ドラマ4本に出演[12]

1988年2月、高校時代に出会った3歳年上の女性と結婚し、横浜市に転居[13]。そしてこの頃、知人を通じて「津軽恋女」(新沼謙治)などで知られる作曲家で音楽プロデューサーの大倉百人(おおくら もんど)[14]に自分の歌が入ったデモテープを渡した。大倉は「声はいいものがある」と評価し、自身の事務所に所属させて、「元広島の暴走族総長」「極真空手初段」というプロフィールを持つ「第2の矢沢永吉」とのキャッチフレーズで、5月30日にレコード会社9社を集めて“競り”と称したファーストライブを行わせた。大倉はその後2 - 3社に契約を持ちかけたが、ちょうどその頃、佐村河内の弟が事故死したことや、大倉自身が佐村河内の「虚言癖」に気づいたこともあり、契約を詰めることなく、同年夏頃には事務所を辞めさせた。1988年5月31日のサンケイスポーツ紙面には、佐村河内の「国内では目標にする人はいません。いまの日本のロックにないパワーを見せたい」という言葉が掲載されている[15][16]

1990年、音楽バンド「Kids」のリーダー、「サミー」という名で活動。ポータートーンを用いたメロディ作りを始める[17][18]

1993年、自伝によればこの頃、左耳の聴力を失ったという[17]

1994年、この年よりNHKで制作が開始された『山河憧憬』シリーズの中の一話「武蔵野」の音楽を担当した。文春の記事では1993年に担当して1994年に放送となっている。

1996年新垣隆が佐村河内のゴーストライターとして曲を作り始める。新垣は「佐村河内の曲は、ほぼすべて自分が担当したと認識している」と述べている[19]

出会いは当時、シンセサイザーを使って簡単な作曲をしていた佐村河内が、映画『秋桜』の音楽の仕事を依頼されたことに始まる。1996年夏、アシスタントを探していた佐村河内は、自身がシンセサイザーで作った「短いテーマ曲」を新垣に渡して、「これをあなたにオーケストラ用の楽曲として仕上げてほしい。私は楽譜に強くないので」と頼んだ。佐村河内は「この作品はぼくの名前で発表したい。君の名前は演奏家としてクレジットするし、将来必ず引き上げるから、しばらく協力してほしい」と言ったという。この曲は「佐村河内が制作予算を無視して約二百万円もの自腹を切り」、新垣が「大学で集めた学生オーケストラに演奏させて録音」させた。「一つの作品ができると、それを持って別の映画会社、ゲーム会社、テレビ局等に売り込む。取ってくる仕事は、確実にレベルアップしたものになって」いったという[17]

1997年1月3日、音楽を担当した[20]NHK『山河憧憬 武蔵野』が放送される[21]

1997年5月3日、映画『秋桜』公開[22]

1998年8月21日、ゲームソフト『バイオハザード』の交響曲として「CRIME AND PUNISHMENT」発売[23]。この際のプロフィールには「5歳から作曲を始める」「クラシック、テクノ、民族、宗教音楽など20を超える音楽ジャンルを自在に操る鬼才」などと表記されている。

1999年1月、ゲームソフト『鬼武者』の音楽「交響組曲ライジング・サン」の担当が決定。佐村河内は自らが打ち込みで作曲した8曲入りのデモテープを渡し、新垣に200を超える楽器によるオーケストレーションを担当させた。しかし自伝によれば、この年の2月に「全聾」となり[17]、医療検査機関からは「感音性難聴による両耳全聾」「両耳鼓膜欠落」と診断されたという[24]。同年4月『鬼武者』製作発表。販売元であるカプコンの関係者によると、この日を境に「(佐村河内は)全聾である設定」にした、彼の耳が聞こえていることは、社内では皆が知っている暗黙の了解事項だった、という[12]

2001年1月、ゲーム『鬼武者』と、「交響組曲ライジング・サン」を含むサウンドトラックが発売され、17日の完成記者会見に臨んだ[25]。聴覚障害をはじめ、抑鬱神経症、不安神経症、頭鳴症、耳鳴り発作、重度の腱鞘炎など、自らの障害や持病について公表。頭鳴症については「常にボイラー室に閉じ込められているかのような轟音が頭に鳴り止まない」としていた。長らく聴覚障害を隠していた理由については「耳の不自由な作曲家の作品には、同情票がつくであろうこと。それだけはどうしても避けたかったのです」「『聴覚障害を売り物にした』という誤解も避けられないだろう」[26]と説明した。


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