佐木 隆三
誕生小先 良三
(1937-04-15) 1937年4月15日
日本統治下朝鮮 咸鏡北道穏城郡
死没 (2015-10-31) 2015年10月31日(78歳没)
日本・福岡県北九州市小倉北区
墓地関門海峡に散骨
職業ノンフィクション作家
北九州市立文学館名誉館長
九州国際大学元客員教授
言語日本語
国籍 日本
最終学歴福岡県立八幡中央高等学校
活動期間1961年 - 2015年
ジャンルノンフィクション小説
代表作『復讐するは我にあり』
主な受賞歴第74回直木賞
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佐木 隆三(さき りゅうぞう、本名:小先 良三〈こさき りょうぞう〉、1937年〈昭和12年〉4月15日 - 2015年〈平成27年〉10月31日)は、日本の小説家、ノンフィクション作家で、北九州市立文学館名誉館長、九州国際大学元客員教授。当初は純文学作家として活動したが、直木賞受賞の『復讐するは我にあり』以降は犯罪ノンフィクションで人気を博し、後年は法廷のルポルタージュでも広く知られる。旧朝鮮咸鏡北道穏城郡生まれ[1]。 両親とも広島県出身で[2]、父親は農家[2]。一旗あげようと田畑を売り払って朝鮮に渡り[2]、良三は朝鮮で生まれる[1][2][3]。1941年(昭和16年)、銀山の所長をしていた父が呉の海軍に召集されたため[3][4]、一家で日本に引き揚げた[3][4]。母の郷里で広島市から北へ40km、中国山地の山あいの寒村である広島県高田郡小田村(現:安芸高田市甲田町)で育つ[3]。1945年(昭和20年)、終戦間際の7月に父がフィリピンミンダナオ島ザンボアンガで戦死。8月には原爆のきのこ雲を見る[3]。終戦後は生活困窮のため、広島市へ母がヤミ米 1950年(昭和25年)、母の親戚を頼り八幡市(現:北九州市八幡東区)へ移る[1][4]。1956年(昭和31年)、福岡県立八幡中央高校卒業後、八幡製鐵(現:日本製鉄)に就職[2]。1960年(昭和35年)、八幡製鐵労組(労働組合)の活動をはじめ、安保闘争の直前から日本共産党に入党、組合活動を活発化させるが、まもなく共産党を離れ、共産党を批判する小説を書く。1961年(昭和36年)、『大罷業』を『別冊日曜作家』に発表。1964年(昭和39年)に、八幡製鐵を退職。一方で同年、後年の代表作『復讐するは我にあり』のモデルとなった西口彰による連続殺人事件の裁判を一度だけ傍聴している。以後、作家活動に専念する。 同人誌などに小説を書き始め、『新日本文学』や『文學界』に発表。長崎造船の中里喜昭とともに、労働者作家として注目を浴びる。 1967年(昭和42年)、東京都中野区東中野に移り東京での作家生活を始める[2]。1971年(昭和46年)、のちに野坂昭如、中上健次らが足しげく通った新宿ゴールデン街の文壇バー「花の木」の名物ママとなる広田和子と離婚[5]、沖縄へ引っ越して2度目の結婚。コザ市の外人アパートに住み、沖縄復帰闘争の活動家たちとかかわり復帰問題に深く関与した。11月17日の沖縄返還における沖縄返還協定批准阻止闘争による沖縄ゼネストで、作家だからデモの首謀者に違いないと琉球警察に疑われ1972年1月に逮捕される[4]。その後12日間、留置所に勾留されたが無実と判明して釈放された。留置所での様々な犯罪者たちとの出会いが転機となって、犯罪小説にのめり込んでいった[4]。1973年(昭和48年)、2年住んだ沖縄を離れ千葉県市川市に移住。 1978年(昭和53年)7月、銀座の路上で交差点に赤信号停止しているタクシーに乗ろうとしたところ、タクシー乗り場から乗るように言われたことに逆上。タクシーのボンネットに乗り上げて暴れてフロントガラスを破壊したため、築地警察署員に逮捕される。この時、佐木は仲間5人とともにクラブなど2軒でウイスキーボトルを2本近くあけるなど[6]、かなり酒に酔っていた。1979年(昭和54年)、『復讐するは我にあり』が松竹で映画化(監督:今村昌平、主演:緒形拳)され、同年映画賞を独占。
来歴
生い立ち
作家生活