佐川満男
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さがわ みつお
佐川 満男
本名佐川 満男
別名義佐川ミツオ
生年月日 (1939-11-09)
1939年11月9日
没年月日 (2024-04-12) 2024年4月12日(84歳没)
出生地 日本兵庫県明石郡垂水町塩屋
(現・神戸市垂水区塩屋町
血液型O型
職業歌手俳優タレント
配偶者伊東ゆかり1971年 - 1975年
著名な家族宙美(娘)
佐川明(義兄)
佐川一政(甥)
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佐川 満男(さがわ みつお、1939年昭和14年〉11月9日 - 2024年令和6年〉4月12日)は、日本歌手俳優タレント兵庫県神戸市垂水区塩屋町出身。本名同じ。血液型はO型。ライターズカンパニー田畑冨久子事務所、ミュージックオフィス合田に所属。
来歴・人物

貿易商を営む家の4人きょうだいの末っ子として、兵庫県明石郡垂水町(現・神戸市垂水区塩屋で出生[1]。父は佐川商店代表の佐川与一で、義兄(姉の夫)は栗田工業社長の佐川明で、甥(姉の子)に佐川一政がいる[2][3]。ちなみに、実家の界隈は外国人の別荘地で、実家の洋館は建築から80年以上経ってなお現存する[1]

神戸市立塩屋小学校神戸市立鷹取中学校を経て、神戸市立須磨高等学校を1年で中退した後に、英語によるカントリー・ミュージックの歌詞やギターによる演奏法を独学で身に付けた[1]。やがて、神戸市の須磨界隈で活動していたロカビリーバンドにボーカルで参加すると、「白馬車」(神戸・新開地のジャズ喫茶)と「銀馬車」(当時有名だった大阪・難波のジャズ喫茶)のオーディションに合格。「銀馬車」でのオーディション合格翌日から、「クレイジー・バブルス」というバンドで内田裕也とツインボーカルを務めたところ、バンドは大きな人気を博した。昼は神戸・夜は難波で歌う多忙な日々が続いたことから、ボーカルを1名追加させる目的でオーディションを実施したところ、歌手志望の中村泰士が参加。この時は佐川曰く「人相が悪くて歌が下手」との理由で「クレイジー・バブルス」のメンバーになれなかったものの、後に作詞家・作曲家として佐川の人生に多大な影響を及ぼす[4]

「銀馬車」での東西ロカビリー大会で知り合った「ザ・スイング・ウエスト」の堀威夫から誘いを受けたことを機に上京する[4]と、1960年に「二人の並木径」でビクターレコードから歌手デビュー。デビュー当初は、「佐川ミツオ」という名義を使用していた[5]。「二人の並木径」を作曲したのはニール・セダカで、1960年に来日公演を開いた際には、「ザ・スイング・ウエスト」がバックバンドを務めていた。

デビューからしばらくは低調だったが、同年10月に発売された「無情の夢」が18万枚(1961年10月時点)の大ヒットになり、その後もリバイバルブームを追い風に「ゴンドラの唄」「背広姿の渡り鳥」などのヒット曲を連発[6]NHK紅白歌合戦には、デビュー2年目の1961年から2年連続で出場した。しかし、ネフローゼ症候群結核でおよそ3ヶ月間の入院生活を余儀なくされたことや、有頂天になった反動で悪評が立ったことから人気が急降下[5]。その最中に、自身のステージで前座を務めていた中村が、佐川の自宅でギターを弾きながら10分足らずで「今は幸せかい」という曲を作ってしまう[7]

佐川は「今は幸せかい」を音楽出版社に自ら持ち込んだものの、行く先々で門前払いに遭ったため、自費で500枚のレコードを製作。中村と2人で大阪の盛り場を回ったところ、有線放送のリクエスト件数で1位を記録したあげく、日本国内の全レコード会社からリリースを正式に打診された。結局、1968年に本名の「佐川満男」名義で、「リリースの条件が特に良かった」という日本コロムビアから「今は幸せかい」をリリース。およそ60万枚の大ヒットに至ったばかりか、翌1969年には、この曲をひっさげて『NHK紅白歌合戦』へ7年振りに返り咲いた[8]

1970年に『NHK紅白歌合戦』へ通算4回目(自身2度目の2年連続)出場を果たすと、1971年に同業者(歌手)の伊東ゆかりと結婚。「伊東の歌が元々好きだった」とのことで、結婚後に一人娘の宙美を授かったが、1975年の5月に離婚している。佐川が離婚後に語った話では、子どもの頃から歌っている伊東の才能や歌のうまさに嫉妬する[8]あまり、伊東とたびたび口論していたという。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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