佐山聡
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佐山 聡
プロフィール
リングネーム佐山 聡
タイガーマスク(初代)
スーパータイガー(初代)
ザ・タイガー(初代)
タイガーキング
ザ・マスク・オブ・タイガー
サミー・リー
サトル・サヤマ
佐山 サトル
本名佐山 聡
ニックネーム黄金の虎
四次元殺法
伝説の虎
10年先を行く男
天才
身長172cm
体重90kg(全盛時)- 115kg
誕生日 (1957-11-27) 1957年11月27日(65歳)
出身地山口県下関市
所属新日本プロレス
UWF
U.F.O.
リアルジャパンプロレス
スポーツ歴レスリング
キックボクシング
柔道
トレーナーアントニオ猪木
カール・ゴッチ
山本小鉄
藤原喜明
黒崎健時
ディアブロ・ベラスコ
デビュー1976年5月28日
魁勝司
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YouTube
チャンネル

佐山道場チャンネル

活動期間2020年12月23日 -
登録者数5030人
総再生回数340,723 回
チャンネル登録者数・総再生回数は
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佐山 聡(さやま さとる、1957年11月27日 - )は、日本男性プロレスラー格闘家総合格闘技の元祖とされる競技・シューティング(現:修斗)の創始者。山口県下関市長府出身。血液型B型。

1976年に新日本プロレスでプロレスラーとしてデビュー。1981年にタイガーマスク(初代)に扮し、空中技を駆使したファイトスタイルで国民的な人気を集め、一大プロレスブームを巻き起こした。1983年に理想の格闘技確立を目指して現役を引退したが、翌1984年には現役復帰して「ザ・タイガー」「スーパータイガー」のリングネームで第一次UWFに参戦した。1984年に総合格闘技団体「修斗」、2005年には「リアルジャパンプロレス」、2006年には「掣圏真陰流」の創始及び興義館を創設している。2012年現在、本人の設立である武道団体・掣圏真陰流興義館総監を務め、格闘家以外にも武道家思想家としても活動している。
来歴
少年時代

1957年11月27日、山口県下関市長府に産まれる[1]。誕生から3日後には「佐山稔」と名付けられたが、父親が「えらい」という意味を込めて「聡」と名付けられた[2]

小学校2年生時に兄に連れられ、家の近くの乃木神社の境内にある道場で柔道を始める[3]。当時の佐山は警察官になってゆくゆくは警視総監になることを将来の夢としており、当時書いた作文には「たくさんのどろぼうを、つかまえようとおもいます」と書いていた[4]。しかし、小学校4年時にキックボクシングのテレビ番組で沢村忠を見たことで格闘技に興味を惹かれるようになる[5]。佐山にとって沢村は好きな野球選手だった王貞治とともに憧れの対象となったが[5]、やがて憧憬の対象がキックボクシングからプロレスへと移り[6]、また中学校時代に来日したミル・マスカラスの大ファンとなった[7]

中学校では柔道部に所属し、3年時の秋には下関市代表として山口県中学校秋季体育大会に出場している[8]。中学卒業後は高校に進学せずにプロレスラーになろうと考えていたが、担任と父親から猛反対されたため山口県立水産高等学校に入学し、レスリングに入部[9]。入学直後に出場した大会の75kg級で第3位となると、後に国体候補選手にも選ばれ、11月に行われた新人戦の75kg級で優勝する[10]。しかし、佐山はこれでプロレスラーになれると感じたことで高校を中退する意思を固め[11]、新日本プロレスに入門するために上京したい旨を父親に伝えた[12]。ここで父親と激しく衝突したが、最終的に父親が根負けし、父が紹介する仕事に就くという条件を付きで佐山は上京をすることとなった[13]

上京した佐山は千葉県千葉市の工場に勤務することとなったが、体を動かす機会が自主トレーニング以外になくなったため会社のサッカー部に入り、背番号3をつけて千葉県内の企業のサッカー部で作られたリーグ戦「京葉リーグ」にも出場した[14]。しかし、父親は工場の同僚たちに対し、佐山をプロレスに近づけないようにしてくれと手を回しており、後にこれに気付いた佐山は怒りからこの工場を退職[14]。退職後は柏市の新聞販売店に就いたが、この職場も父親の紹介だったためすぐに退職した[14]
新日本プロレス若手時代、サミー・リーとして活躍

前述の新聞販売店を退職後は1974年8月から南千住のレストランに住み込みで働き始めた[15]。また、このレストランに入った後に自宅へ無事を知らせる手紙を出したが、この時父に対して「これがもうお父さんに返事を聞く最後の手紙です」と前置きしたうえで「プロレスラーになってもよろしいでしょうか?」と強調した文を書いていた[16]。この直後に新聞社と連絡を取って新日本プロレスの入門テストを受けることになった[17]後楽園ホールで行われた入門テストをクリアして新日本への入門が決まった[18]

1975年7月に新日本の道場に入門[19]。入門の前に一度新日本を訪れているが、その時は新間寿から、身長が170cmを超えて体重が70kgになったら連絡するように促され、実際に身長が172cm、体重が72kgになってから再訪、そこで後楽園ホールで行われた試合に連れて行ってもらった。新間が新日本の弟子を独断で採用したのは佐山の時が初めてであり、アントニオ猪木からは最初「あんなちっこいの」呼ばわりされたが、その練習熱心さから次第に猪木も佐山を認めるようになった[20][21]

1976年5月28日に魁勝司戦でデビューし[22]、57戦目となる栗栖正伸戦で初勝利を挙げている[23]。初勝利までは1引き分けを挟んで55連敗を喫したが[23]、試合内容は良かったと言われている[20]。佐山は道場での練習に執心していたが、他の格闘技の技術を習得しようと考えるようになり、黒崎健時目白に創設したキックボクシングジムの目白ジムに入門し、新日本での練習と並行して同ジムでトレーニングを積んだ[24][注 1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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