佐多稲子
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佐多 稲子
(さた いねこ)
1954年頃
誕生佐田 イネ
(さた いね)
1904年6月1日
日本長崎県長崎市
死没 (1998-10-12) 1998年10月12日(94歳没)
墓地八王子市の富士見台霊園
職業小説家
言語日本語
国籍 日本
ジャンル小説
文学活動プロレタリア文学戦旗派)
代表作『キャラメル工場から』(1928年)
『くれなゐ』(1936年 - 1938年)
『私の東京地図』(1946年 - 1948年)
『樹影』(1972年)
『時に佇つ』(1975年)
『夏の栞』(1983年)
主な受賞歴女流文学賞(1962年)
野間文芸賞(1972年)
川端康成文学賞(1976年)
毎日芸術賞(1983年)
読売文学賞(1986年)
デビュー作『キャラメルの工場から』(1928年)
配偶者窪川鶴次郎(1926年 - 1945年)
子供窪川健造(長男)
佐多達枝(次女)
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佐多 稲子 - 窪川 稲子(さた いねこ - くぼかわ いねこ、1904年明治37年)6月1日 - 1998年平成10年)10月12日)は、日本小説家である。職を転々としたのち、プロレタリア作家として出発し、日本共産党への入党と除名、窪川鶴次郎との離婚などを経て、戦後も長く活躍した。左翼運動や夫婦関係の中での苦悩を描く自伝的な作品が多い。
生涯1929年長男の窪川健造、次女の佐多達枝とともに(1936年)

1904年に長崎市に生まれる。出生当時、両親はいずれも学生で十代だったため、戸籍上は複雑な経過をたどっていた。母親を結核で亡くし、小学校修了前に一家で上京、稲子は神田のキャラメル工場に勤務する。このときの経験がのちに『キャラメル工場から』という作品にまとめられ、彼女の出世作となる。上野不忍池の料理屋「清凌亭」の女中になり、芥川龍之介菊池寛など著名な作家たちと知り合いになる。その後丸善の店員になり、資産家の当主で慶應大学の学生であった小堀槐三との縁談があり結婚するが、若くして当主となり兄弟間の係争が絶えなかった夫は稲子にも病的な猜疑心を向けるようになり、夫婦ともに精神的に追い詰められた結果二人で自殺を図る。未遂で終わったがその後離婚し、小堀との子である長女葉子を生んで一人で育てる[1][注 1]

最初の結婚に失敗したあと、東京本郷のカフェーにつとめ、雑誌『驢馬』同人の、中野重治堀辰雄たちと知り合い、創作活動をはじめる。1926年、『驢馬』同人の1人で貯金局に勤めていた窪川鶴次郎と結婚する。そのため、最初は窪川稲子の名で作品を発表した。1928年、『キャラメル工場から』を発表し、プロレタリア文学の新しい作家として認められる。1929年にはカフェの女給経験を綴った『レストラン・洛陽』を発表し、川端康成に激賞された[2][3]。『レストラン・洛陽』の同僚女給「夏江」は伊藤初代がモデルだったが、川端はその奇遇を知らずに選評していた[2]。雑誌『働く婦人』の編集にも携わり、創作活動と文化普及の運動ともに貢献した。1932年には非合法であった日本共産党に入党している[4]。同年、日本プロレタリア文化連盟(コップ)への弾圧により夫の窪川が逮捕、翌年保釈されたが、1935年にはコップ発行の『働く婦人』の編集発行人であった佐多が逮捕、留置所の中で小説を書き続けた[5]

プロレタリア文学運動が弾圧により停滞した時代には、夫・窪川の田村俊子との不倫もあって、夫婦関係のありかたを見つめた『くれなゐ』(1936年)を執筆し、長編作家としての力量を示した。しかし、戦争の激化とともに、権力との対抗の姿勢をつらぬくことが困難になり、時流に流されていくようになる。戦場への慰問にも加わり、時流に妥協した作品も執筆した。
戦後婦人民主クラブの中心メンバー(1946年撮影)。前列左から一人おいて、加藤シヅエ厚木たか宮本百合子、佐多稲子、櫛田ふき羽仁説子。後列左から一人おいて、関鑑子、藤川幸子、山室民子佐多、長男の窪川健造、次女の佐多達枝。「北多摩文学」のメンバーとともに。1950年撮影。1954年、土門拳撮影

1945年5月、窪川と離婚。秋頃から筆名を佐多稲子とする[6]。戦時中の行動が問われて新日本文学会の創立時に発起人にはならなかったが、当初より活躍した。

同年11月、佐多、羽仁説子加藤シヅエ宮本百合子山本杉赤松常子松岡洋子山室民子の8人が呼びかけ人となり、婦人団体結成に向けた運動を開始。佐多は綱領を起草した[7]。準備会が重ねられ、1946年3月16日、「婦人民主クラブ」の創立大会が神田共立講堂で行われた[7][8][9]。初代委員長には松岡が就いた[10]

戦後の民主化運動に貢献するも、戦後50年問題、日ソ共産党の関係悪化など日本共産党との関係には苦しみ、とりわけ部分的核実験禁止条約を巡っては、批准に反対していた同党に対し、野間宏らと批判を繰り返していたことから、最終的には除名されるにいたった。佐多の作品には、戦前の経験や活動を描いた『私の東京地図』(1946年)、『歯車』(1958年)があるが、『夜の記憶』(1955年)、『渓流』(1963年)、『塑像』(1966年)など、そうした戦後の共産党とのいきさつを体験に即して描いた作品も多い。

自身の体験に取材した作品以外にも、戦後の女性をめぐるさまざまな問題を作品として描いたものも多く、それらは婦人雑誌や週刊誌などに連載され、映画やテレビドラマになったものもある。

社会的な活動にも積極的に参加し、松川事件の被告の救援に活躍もした。1967年3月、日本社会党の関連団体の財団法人社会新報は翌月の東京都知事選挙に向けて『わが愛する東京―革新都政に期待する』を出版。吉永小百合淡谷のり子ら著名人27人がそれぞれ都政に対する思いを綴る中で、佐多は明確に美濃部亮吉支持を表明した[11]

1970年、婦人民主クラブが主流派・反主流派に分裂。除名された反主流派は「婦人民主クラブ再建連絡会」を結成し、主流派は名前を変えずに活動を継続[9]。同年6月、佐多は婦人民主クラブの委員長に就任した[6]

1985年、樋口一葉の『たけくらべ』の結末で美登利が変貌するのを、初潮が来たからだとする従来の定説に対して、娼婦としての水揚げがあったのではないかと書き、「たけくらべ」論争を引き起こした。現在では一般的に両論併記となっている。なお、この説はすでに窪川鶴次郎も、『東京の散歩道』(1964年、現代教養文庫)で述べていた[要出典]。

晩年は文学的社会的活動から身を退いて特養ホームで暮らし[5]、1998年、敗血症のため死去[12]


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