佐土原県
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佐土原藩庁が置かれていた佐土原城

佐土原藩(さどわらはん)は、江戸時代に日向国那珂郡および児湯郡を領有した藩。藩庁は佐土原城宮崎県宮崎市佐土原町)。藩主家は島津氏支族の佐土原島津家であり、薩摩藩支藩とされるが、その関係の正確性は「薩摩藩との関係」を参照。
歴史

1603年(慶長8年)、島津貴久の弟・忠将の子である以久が、日向国那珂郡児湯郡内で3万石を与えられて独立し、居館を佐土原城に構えた。この地は元々島津一族の一人であった島津家久豊久親子の領地であったのが、関ヶ原の戦いで豊久が討死し無嗣断絶扱いになり、改めて江戸幕府より以久に与えられたものである。この時、家久・豊久来の譜代の家臣に加え、以久が松木氏など新参の家臣を垂水より引き連れ、家臣団の門閥対立の基となる。

なお以久の孫で、垂水島津家当主の島津久信(信久)が家久の三女で豊久の妹・宗鉄を正室に迎え、慶長7年(1602年)には宗鉄との間に島津久敏を儲けていた。慶長15年(1610年)に以久が死去すると、久信に佐土原藩相続の打診があったが、久信が辞退したことにより島津忠興が第2代佐土原藩主となった。

第6代・惟久は出生後まもなく、父忠高を失い、あまりに幼いが故、成長まで、番代として忠高の従兄弟である久寿が養子となって家督を継ぐ。藩内では、久寿の父久富や重臣松木左門の専横によりお家騒動となり、1686年貞享3年)薩摩藩の介入を招いた(松木騒動)。1690年元禄3年)、久寿は16歳に成長した惟久に家督を譲ったが、その際、幕府の意向により3000石を島之内に分与されて旗本寄合となり、その結果、佐土原藩の石高は27000石となった。

佐土原は元々城地であったため、1699年(元禄12年)に城主の格式が与えられている。

1839年6月7日(天保10年4月7日)、10代当主忠徹参勤交代で江戸へ向かう途中、東海道草津宿本陣(現在の滋賀県草津市)にて急死。幕府への継嗣の届け出はなされておらず、無嗣断絶の可能性もあった。家臣らは、忠徹の死を秘して奔走し、天保10年5月25日三男忠寛への跡目相続の許可が下り、翌26日に忠徹の死が公表された。

幕末は、薩摩藩と行動をともにし、忠寛は、1869年(明治2年)に戊辰戦争の激戦の功により、賞禄3万石を与えられた。

1869年明治2年)6月20日版籍奉還、忠寛を知藩事にいただき、従前より予定していた藩庁を佐土原城から広瀬城への転城をすすめていたが(詳細は、下記「広瀬転城」参照)、1871年(明治4年)7月14日に廃藩置県が打ち出され、佐土原藩は佐土原県となり、広瀬城は建設中止になった。翌15日に忠寛は知藩事を免ぜられ10月には東京へ移住した。11月14日には佐土原県は廃止され、美々津県に編入された。

後に美々津県は宮崎県に編入され、鹿児島県との合併を経て、分県にともない再度宮崎県に編入された。

佐土原島津家の家督は島津忠亮に譲られ、1884年(明治17年)、子爵を授爵(5万石未満の大名家として)、1891年(明治24年)、忠寛が幕末に挙げた功績によって伯爵に陞爵した。昭和天皇内親王貴子が嫁いだ島津久永は、旧佐土原藩の島津伯爵家出身である。
広瀬転城

佐土原藩は版籍奉還後の1869年(明治2年)10月1日、明治政府からの許可を得た上で佐土原城から新しく築城する広瀬城へ移るよう転城令を出していた。弓場組(後述)の横行の一掃と、守り口による城下士の序列や外城士の区別をなくし、新しい組織替えを意図していたが、1871年(明治4年)7月に廃藩置県により広瀬築城は中止された。

兼ねてから藩庁を佐土原城から移転するべきだという考えは有志の間から出ていた。

藩校学習館の塾頭三浦十郎[1]、町田景慶をはじめとする有志が城と藩士の住居を都於郡に移し、人心を一新させることを能勢直陳ら家老に発案した。

1867年(慶応3年)、酒匂景命(後の曽小川久株)、富田通信、能勢直陳ら家老は京都で相談のうえ、入京した藩主忠寛の同意を得て、移転先を選定にかかった。

1869年(明治2年)、曽小川、樺山舎人、富田、能勢たちで候補地を定めようとしたが、都於郡、年居原、新田山之坊、広瀬等が出て定まらず、まずは明治政府に転城の許可を得ることを優先した。7月24日に伺書を提出し、25日に知政所、知事をはじめ士族の住所を移転するが、城は当分従来の物を使い、番兵も置くことを申し出て了承された。

許可を得たのち、最終的に移転地は広瀬に決定された。四つの候補先で広瀬が選ばれたのは、次のような理由があったと言われている。

広瀬は地の利が良く、福島、石崎などの港を控え、便利である。

広瀬は砂地で潮の干満で増減する沼が続いており、塩害を受けやすく、干害時は特に被害を受ける事が多く、米麦が主生産であった当時の農業には不適だった。佐土原は土地が肥沃で農耕に適しているので、士族と農民を入れ替え住まわせ、貧困な藩財政の立て直しを見込んでいた。

忠寛が知藩事として帰国した10月1日、知政所を広瀬に移転する命令が出された。政庁やその他の屋舎が完成するまでの間は知事の住居を天神の御茶屋に定め、広瀬村庄屋役所を仮知所とした。その他の役所も民家を借用した。また、一ツ瀬川河口付近から石崎川まで金丸惣八に運河を引かせて資材の運搬を行った。藩庁移転の臨時費の総額は明らかではないが、戊辰戦争の莫大な戦費を負担した後の藩財政では賄いきれるものではなく、士族の禄高の10分の6を借り上げて充当した。

1870年(明治3年)2月16日にまず新政庁が、8月に知事邸宅をはじめ各庁舎も完成したため、9月17日に佐土原城を廃城する旨を明治政府に報告した。多大な費用を払った転城だったが、1871年(明治4年)7月14日に廃藩置県が打ち出され、佐土原藩は佐土原県となり、広瀬城は建設中止になった。

明治時代になって版籍奉還の後に城郭を新築し、移転しようとしたのは極めて異例のことであったが、版籍奉還将軍の代替わりによる所領安堵を明治政府が行ったものだと捉えた藩もおり、版籍奉還後の1870年(明治3年)9月に「藩制」の公布など明治政府も藩制度を前提とする布告を出しており、廃藩置県が行われるのを予想することは困難だったと推測される。
薩摩藩との関係

薩摩藩との関係は仙台藩宇和島藩あるいは盛岡藩八戸藩との関係に近いものであり、薩摩藩支藩ではないとの見解がある一方、本家に当たる薩摩藩からたび重なる介入を受けたことにより、支藩と見なされることが多くなったという見解がある。

佐土原藩は以久の跡を長男彰久の系統の当時の当主久信が辞退し、三男忠興が相続したが、結果的に佐土原藩主家が彰久の系統である陪臣垂水島津家の分家ということになった。薩摩藩(島津宗家)からは従属の立場にあると見なされ、藩内では垂水島津家の下に位置づけるが、藩外では大名分の佐土原藩の方が上という二重基準が『鹿児島県史料』でも見られる。代々の佐土原藩主正室には島津宗家当主の姫ばかりでなく薩摩藩家老の娘を含む薩摩藩出身者が多いこと、薩摩藩から佐土原藩への介入はあっても佐土原藩から薩摩藩への介入はなかったことなどに、大名ながら陪臣の分家という弱い立場が如実に現れている。一方で、薩摩藩主の子を佐土原藩主に養子入りさせることは幕末までなかった。

もっともこれは、仙台藩が宇和島藩に対してとった態度に類似しており、特に伊達宗贇が陪臣石川家の養子から宇和島藩を相続して以降からの関係は薩摩藩と佐土原藩の関係に類似したものとなっている[2]

一方、国立公文書館内閣文庫の『嘉永二年十月二日決・本家末家唱方』での幕府老中見解では『本家末家唱方之儀、領知内分遣し一家を立て候末家与唱、公儀から別段領知被下置被召出候家は、本家末家之筋者有之間敷』とある。この史料自体が1849年のもので、佐土原藩や宇和島藩などが成立してから200年ほど経っており、佐土原藩などの成立当時の内分分知新田分知という分家手法がなかった時代にもこの見解であったかは追加研究を必要とする。もっとも江戸時代後期以降は、この見解が意識された可能性がある。
歴代藩主

島津家外様 3万石→2万7千石、
伺候席大広間席[3]

以久(もちひさ)〔従五位下・右馬頭〕

忠興(ただおき)〔従五位下・右馬頭〕

久雄(ひさたか)〔従五位下・右馬頭〕

忠高(ただたか)〔従五位下・飛騨守〕

久寿(ひさとし)〔従五位下・式部少輔〕

惟久(これひさ)〔従五位下・淡路守〕 分与により2万7千石

忠雅(ただまさ)〔従五位下・加賀守〕

久柄(ひさもと)〔従五位下・淡路守〕

忠持(ただもち)〔従五位下・淡路守〕

忠徹(ただゆき)〔従五位下・筑後守〕

忠寛(ただひろ)〔従五位下・淡路守〕


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