logo佐和山城
(滋賀県)
JR琵琶湖線の車窓より望む佐和山
城郭構造連郭式山城
天守構造五層(三層説あり。1595年築・非現存)
築城主伝・佐保氏
佐和山城(さわやまじょう)は、近江国坂田郡(滋賀県彦根市)の佐和山にあった中世中期から近世初期にかけての日本の城(山城)。現・佐和山城址。
坂田郡および直近の犬上郡のみならず、織豊政権下において畿内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも重要な拠点であり[1]、16世紀の末には織田信長の配下の丹羽長秀、豊臣秀吉の奉行石田三成が居城とし、関ヶ原の合戦後は井伊家が一時的に入城したことでも知られる[2]。
歴史
佐々木・六角・浅井・織田の時代が築いた砦が始まりとされ、建久年間(1190- 1198年)の文書にその名が見える。
六角政頼・久頼・高頼・氏綱・定頼の代の期間、六角氏が犬上郡を支配し、応仁の乱の後、家臣の小川左近大夫・小川伯耆守を城主として置いた。
しかし戦国時代の後半に入ると、北近江における六角氏勢力は衰退し、それにともなっては新興勢力である浅井氏が伸張した。佐和山城もその支配に入って、城は磯野員吉に引き渡され、小谷城の支城の1つとなった。
元亀年間には時の城主・磯野員昌が織田信長らと8ヶ月におよぶ戦闘を繰り広げた。しかし、1571年(元亀2年)2月に員昌は降伏し、代わって織田氏家臣の丹羽長秀が入城。浅井氏旧領と朝倉氏の旧領南部、すなわち、北近江六郡と若狭国の支配拠点とした。 天正10年(1582年)6月の本能寺の変の後に行われた清洲会議では、明智光秀討伐に功があった堀秀政に与えられ、秀政は翌年に入城した。これ以降は事実上、豊臣政権下の城となってゆく。堀秀政の留守中は弟の多賀秀種が城代を務めた。天正13年(1585年)には、転封となった堀家に替わって堀尾吉晴が入城。この頃には約10キロ南西にあたる至近の安土城が廃城となった。さらに石田三成が入城したとされる。入城時期については天正18年(1590年)7月説[3]と、文禄4年(1595年)7月説があったが、伊藤真昭の研究により、天正19年(1591年)4月であることが確定した(ただし、伊藤は天正19年の入城は城代・蔵入地代官としての入城で、三成が正式に佐和山城主に任じられて北近江4郡を与えられたのは文禄4年7月であったことも立証している)[4]。三成は、当時荒廃していたという佐和山城に大改修を行って山頂に五層(三層説あり)の天守が高くそびえたつほどの近世城郭を築き、当時の落首に「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」[5]と言わしめた。ただし、三成は奉行の任を全うするために伏見城に滞在することが多く、実際に城を任されていたのは父の正継であった。城内の作りは極めて質素で、城の居間なども大抵は板張りで、壁はあら壁のままであった。庭園の樹木もありきたりで、手水鉢も粗末な石で、城内の様子を見た当時の人々もすこぶる案外に感じたと記されている(『甲子夜話』)[6]。 佐和山城の戦い
羽柴・豊臣の時代
佐和山城の戦い
戦争:関ヶ原の戦い
年月日:1600年9月17日
場所:近江国 佐和山城
結果:東軍の勝利
交戦勢力
東軍西軍
指導者・指揮官
小早川秀秋
脇坂安治
朽木元綱
小川祐忠
赤座直保
井伊直政
田中吉政
長谷川守知 石田正継 †
石田正澄 †
石田朝成 †
宇多頼忠 †
宇多頼重 †
戦力
150002800
損害
不明不明
関ヶ原の戦い
会津
伏見城
田辺城
白石城
浅井畷
上杉遺民
木曽川・合渡川
河田木曽川渡河
米野
竹ヶ鼻城
岐阜城
伊賀上野城
安濃津城
八幡城
上田
大津城
慶長出羽
石垣原
杭瀬川
関ヶ原
大垣城
佐和山城
三津浜