佐呂間町ふれあいバス
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佐呂間町ふれあいバス(さろまちょうふれあいバス)とは、北海道オホーツク総合振興局管内の常呂郡佐呂間町が運営するスクールバス(町内路線)およびコミュニティバス(町外路線)である。

佐呂間町ふれあいバス運行開始まで廃止代替バスとして運行されていた佐呂間町営バスなど、民間事業者を含む佐呂間町におけるバス路線の概要についても当記事で述べる。佐呂間バスターミナルに集まる(右より)網走バス、佐呂間町営バス、北海道北見バス
概要

1948年(昭和23年)4月から1956年(昭和31年)9月まで、現在の若佐地域は若佐村として佐呂間村・町とは別であったが、ここでは一括して記述する。
町営バス具体化までの佐呂間のバス

戦前は現在の北海道北見バス遠軽営業所の前身となる遠軽乗合自動車合資会社、さらなる前身会社である生田原自動車合資会社および遠佐自動車合資会社によって佐呂間 - 遠軽・安国、佐呂間 - 常呂などが運行された。戦時下にこれらの会社が北見乗合自動車株式会社(現在の北海道北見バス)に統合された[1] 直後の1943年(昭和18年)5月28日に佐呂間営業所が設置されたが、物資不足などの影響によって遠軽と常呂へ辛うじて運行できた状況であった[2]

戦後、各種統制が解除されるに連れて路線拡大の機運が高まり、運行が継続されていた北見バス遠佐線(佐呂間 - 遠軽)と佐常線(佐呂間 - 常呂)に加え、

1949年(昭和24年)7月7日 北見バス富武士線(佐呂間 - 富武士)[注 1]

1952年(昭和27年)

北見バス佐呂間線(佐呂間 - 留辺蘂)開設による北見 - 留辺蘂 - 佐呂間 - 常呂 - 北見間循環線

湧別町営バス若佐線(湧別 - 計呂地 - 若佐)[注 2]


1953年(昭和28年)9月4日 北見バス栃木線(若佐 - 栃木)[注 3]

1960年(昭和35年)3月19日 北見バス幌岩線(佐呂間 - 富武士 - 浜佐呂間)[注 4]

1962年(昭和37年)6月2日 北見バス若佐線(若佐 - 7号線)[注 5]

1963年(昭和38年)5月8日 北見バスサロマ湖観光線(計呂地 - 富武士 - 浜佐呂間 - 栄浦 - 常呂)[注 6]

と、運行網の充実をみた[3][4]

しかし、1960年(昭和35年)頃から過疎化やモータリゼーション化が始まっており、町内路線でも乗客数が減少していった。サロマ湖観光線は観光客の団体観光やレンタカー観光への転換等の煽りを受けて僅か2シーズンの運行で廃止されたほか、佐常線は並行する国鉄湧網線仮乗降場がいくつか設置されたこともあって安価な鉄道に乗客が流れた影響を受けて1967年(昭和42年)5月17日に佐呂間 - 浜佐呂間間が廃止され、北見循環線も消滅している。北見バスでは生活交通路線を多く抱え、運行全エリアで半ば一方的に過疎路線の統合や廃止に踏み切り、典型的な過疎路線であった若佐線は1966年(昭和41年)12月14日に、栃木線は1968年(昭和43年)3月23日に廃止された[5]。佐常線の浜佐呂間 - 常呂間は1971年(昭和46年)10月10日に廃止され常呂町営バス(現・北見市営バス)に代替されたが、常呂町内の北見バス栄浦線(常呂 - 栄浦)が1974年(昭和49年)4月10日に廃止となり、同日より栄浦線の代替も兼ねて運行経路を変更したため、佐呂間町には乗り入れなくなっている[4]
具体化から町営バス運行開始

町では1965年(昭和40年)より順次中学校の統合が行われた。若里、知来、仁倉地域の生徒が佐呂間中学校通学の足とするのは湧網線であったが、知来仁倉方面からと若里方面からでは佐呂間駅到着時刻に差があり、始業時刻の調整が必要となっていた。これを解消すべく列車時刻の調整を国鉄に陳情したが、他市町との兼ね合いや列車の接続等があるため、いち町の通学のために調整されることは無かった。町では若里方面からの列車到着時刻に合わせて始業時間の繰り下げを行ったが、今度は放課後の掃除当番や部活動に支障が出ることとなった。次は富武士線を若里へ延長させるため北見バスに陳情したが、不採算路線の整理を進めている最中でもあったことから、採算が取れる見込みが無いということで断られた[6]

PTAや地域住民からはスクールバス運行の強い要望が出されるに至り、町では地域住民の足確保という面からも検討を重ね、町営バスの運行を決断した。新規の路線であるため一般乗合旅客自動車運送事業[注 7] での申請となり、かつて若佐に乗り入れていた湧別町営バスの例を参考に申請を行ったが、審査が厳しく何度も却下された。その都度手直しを重ねてようやく認可され佐呂間町営バスが誕生。9月24日より若里線(佐呂間 - 中学校 - 高校 - 北会館 - 若里小学校 - 床丹駅 - トカロチ浜 - 富武士浜)の運行が開始された[6][7][8]

初年度は当初の予想通り150万円の赤字となり、これをいかに埋めていくかが課題となった。そこで、富武士線を町営バスで運行すべく北見バスに路線廃止を求めることとなった。北見バスは当初難色を示したものの、1971年(昭和46年)6月21日に富武士線を廃止。同時に町営バスが引き継ぎ、佐呂間 - 若里 - 富武士 - 佐呂間の循環線に変更した[9]1977年(昭和52年)4月1日より富武士線を浜佐呂間駅前まで延長の上で浜佐呂間線(佐呂間 - 北会館 - 富武士浜 - 浪速 - 幌岩 - 浜佐呂間)とし両線循環線を廃止[10]1978年(昭和53年)8月18日より若里線は大和地域へ延長(佐呂間 - 北会館 - 大和 - 若里 - 床丹 - 富武士浜)[11][12]。北見バスの町関連路線は遠佐線と佐呂間線の2路線となり、富武士線廃止からちょうど2年後の1973年(昭和48年)6月21日に佐呂間営業所を廃止した[13]湧網線バス代行初代車両

1987年(昭和62年)には国鉄湧網線が廃止され、網走バスによるバス代行が開始された[14]。町においては佐呂間を中心とした運行系統も設定され運行便数も増えるなど利便性は向上。多くの区間で重複する若里線は代行バス運行開始と同時に廃止した[15]。代行バスは浜佐呂間から幌岩・富武士を経由する直行便が設定され、この区間で浜佐呂間線と重複したが路線短縮などは行われていない。また、乗客減少などにより赤字が拡大し一般会計からの持ち出しが増えていたことなどから、若里線廃止を機に利益追求が求められる一般乗合旅客自動車運送事業での運営を廃し、いわゆる80条バスでの運営に切り替えられた。同一者間での引き継ぎというあまり類を見ない形態で移行が行われ、新たな町営バス事業が開始された。利用者側からはバスのナンバープレートの色が事業用の青色から自家用の白色に変わった程度の変化である[16]
路線網抜本再編、ふれあいバス運行へ路線バス網走行最終運行便を見送る町職員 高速バス若佐停車初便を見送る町長以下町職員

町では2006年(平成18年)より小学校の統合を行い、閉校となった地域にはスクールバスを運行する。一方で町に乗り入れる民間事業者には路線維持のための経費負担を行っている。スクールバスの多くは民間路線と重複し、二重経費となるなど全体的に非効率的な面があることから、これらを改善すべく2008年(平成20年)に「佐呂間町ふれあいバス」計画が発表された[17]


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