佐原義連
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 凡例佐原 義連
佐原義連/江戸時代前賢故実』より。画:菊池容斎
時代平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕不詳[1]
死没不詳[1]
別名十郎(通称)、十郎左衛門尉[2]、三浦義連
官位左衛門尉
幕府鎌倉幕府 紀伊国総追捕使和泉国守護
主君源頼朝
氏族桓武平氏良文三浦氏佐原氏初代
父母父:三浦義明
兄弟杉本義宗三浦義澄大多和義久、義連、
多々良義春、長井義季、杜重行、
源義朝側室、畠山重能室、
金田頼次室、長江義景
妻正室:武田信光の娘
子景連、盛連、家連、重連、胤連、助連、政連、広連、泰連
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佐原 義連(さわら よしつら[1])は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将
生涯高松神社に対する神領の寄進状(『惣地頭兼預所平十カ左衛門尉神領寄進?』正治2年6月、個人蔵)[3]。「遠江國笠原庄一宮近邊荒・野御神領事。」[4]と記されており「惣地頭預所左衛門尉[5]と署名されている

相模国豪族三浦義明の末子[1]三浦氏の本拠・相模国衣笠城の東南・佐原城(現在の神奈川県横須賀市佐原)に居住していたため、佐原氏を称する。

治承4年(1180年8月源頼朝挙兵に一族と共に参じて御家人となる。養和元年(1181年)4月、義連は頼朝の寝所を警護する11名の内に選ばれた(『吾妻鏡』養和元年4月7日条)[6]。同年6月に頼朝が納涼のために三浦へと出かけたおり、三浦氏とともに上総広常も出迎えたが、広常は下馬の礼をとらず、頼朝に近侍していた義連がそれを咎めたとか、酒宴の席でその広常と三浦一族の岡崎義実とが水干のことで乱闘寸前になったときに義連が割って入ってその場を納め、頼朝の御感に与ったなどと書かれている(『吾妻鏡』養和元年6月19日条)。ただし『吾妻鏡』は鎌倉時代後期の編纂であり、どこまで正確なものかは疑わしい。

治承・寿永の乱では一ノ谷の戦い源義経率いる搦手軍に属し、「鵯越の逆落とし」で真っ先に駆け下りた武勇が『平家物語』に描かれている。1672年に刊行された『会津旧事雑考』によれば、義連は文治5年(1189年)7月奥州合戦に従軍し、その功により、陸奥国会津四郡(会津大沼河沼耶麻[7])を与えられたとしている。これは後世の編纂であるから、そのまま信じることはできないが、嘉禄3年(1227年)7月、浄土宗多念義派(長楽寺義)の祖隆寛律師(法然の弟子)が奥州に流罪と決した際(嘉禄の法難)、奥州に所領を持つ佐原盛時(義連の孫)の預かりとなっている事実から、盛時が宝治合戦以前より会津郡耶麻郡加納庄を領していたことへの傍証となる[8]。また宝治合戦(1247年)の時点で、盛時の異母兄が会津の北田や藤倉を名字地とする北田広盛・藤倉盛義の名が『吾妻鏡』にみえるから、佐原氏が宝治合戦以前から会津を所領としていたことは明らかである[9]

文治2年(1186年)、北条時政の後任の紀伊国総追捕使となった[10]。このとき、自身は鎌倉に留まり、任地には代官として少刑部真清を派遣した[10]

文治5年(1189年)の北条時房元服の際、頼朝の命により烏帽子親となる。建久元年(1190年)の頼朝上洛に従い、左衛門尉に任ぜられる[11][12]


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