さぶり しん
佐分利 信
『風雪二十年』の撮影中(右)
本名石崎 由雄(いしざき よしお)
別名義島津 元
生年月日 (1909-02-12) 1909年2月12日
没年月日 (1982-09-22) 1982年9月22日(73歳没)
出生地 日本・北海道空知郡歌志内村(現在の歌志内市)
死没地 日本・東京都板橋区
職業俳優
映画監督
ジャンル演劇
劇映画
テレビ映画
活動期間1931年 - 1982年
配偶者黒木しのぶ
著名な家族石崎二郎
受賞
ブルーリボン賞
新人賞
1950年『女性対男性』
その他の賞
毎日映画コンクール
男優演技賞 / 男優主演賞
1950年『執行猶予』『帰郷』
1952年『慟哭』『お茶漬の味』『波』
1975年『化石』キネマ旬報ベスト・テン
主演男優賞
1975年『化石』紫綬褒章(1975年)
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佐分利 信(さぶり しん、1909年2月12日 - 1982年9月22日)は、日本の俳優、映画監督。本名は石崎 由雄(いしざき よしお)。旧芸名に島津 元。
渋みのある演技で活躍した昭和期の二枚目俳優のひとりで、愛称は「サブリどん」。日活を経て松竹に入社し、上原謙・佐野周二と「松竹三羽烏」を結成して、戦前松竹の看板スターとして活躍した。戦後は監督業にも進出し、『執行猶予』『風雪二十年』『慟哭』などの社会派作品を発表した。1960年代はテレビドラマに活躍の場を移し、晩年は映画界に戻って貫禄のある演技を見せた。主な作品に『兄とその妹』『暖流』『戸田家の兄妹』『彼岸花』『華麗なる一族』『化石』など。女優の黒木しのぶは妻、俳優の石崎二郎は長男、ジャズ・アルトサックス奏者の石崎忍は孫に当たる。 1909年(明治42年)2月12日(金曜日)、北海道空知郡歌志内村(現在の歌志内市)に生まれる。父は明治中頃に北陸から移住し、夕張炭田の歌志内鉱に働く炭鉱夫だった[1][2]。 1923年(大正12年)、歌志内尋常小学校を卒業すると中学教師になるため上京、神田三崎町の苦学生の溜まり場に入って、水道工事や道路工事などの肉体労働で学費と生活費を稼ぎながら正則英語学校や夜間学校に通うが、結局卒業することなく郷里に戻って、小学校の代用教員になる[1]。半年後には神戸に行き、友人と婦人新聞の発行を計画して失敗、再び上京して職探しに奔走する[1]。東京の兄の家に居候しながら映画を観たりするうち、映画関係の職を志す。 1929年(昭和4年)、日本映画俳優学校に入学する[1][3]。1930年(昭和5年)、俳優学校の先輩である小杉勇・八木保太郎を頼って京都に赴き、2人の伝手で日活に入社、監督部入りを望んだが、俳優になるよう勧められて現代劇技芸部(俳優部)に入る[1]。翌1931年(昭和6年)、島津元を芸名に、内田吐夢監督『日本嬢』に左翼の闘士役で映画デビューする[1]。続く『動員令』(熊谷久虎監督)で主役に抜擢され、それまでの俳優にない朴訥(ぼくとつ)な演技で注目される[3]。『キネマ旬報』誌上で北川冬彦は「俳優では、島津元の素朴な芸は、いままでの俳優が持っていない意思的なところを示しているのは特に眼を引いた」と評しているが[1]、本人は後年に「僕は芝居に乗らない気持ちで出てるだけ。それが自然な演技が要求される映画だから、それなりに行けた」とそのときを語っている。1932年(昭和7年)、『さらば東京』で共演した黒木しのぶと同棲ののち結婚する。仕事する日は必ず玄関で握手してから出かけるなど大変な愛妻家だった。 1933年(昭和8年)、『女性陣』を最後に日活を退社する。大阪劇団を経て1935年(昭和10年)に松竹蒲田撮影所に入社する。松竹入りの労をとったのは藤本真澄で、彼が五所平之助らによる新人養成グループのメンバーだったことから佐分利を五所に紹介し、五所は若手スターのいなかった松竹蒲田に入れ、若手二枚目として売り出すことになった[4]。芸名は、蒲田に島津保次郎監督がいたため同じ苗字ではまずいということで、駐華公使で怪死した佐分利貞男と画家の佐分真にちなんで佐分利信と改名した[4][3]。松竹入社第1作は五所監督の『あこがれ』で、高杉早苗の相手役を演じた。『男への条件』(1941年)のスチル写真。右は北見禮子。 1936年(昭和11年)、島津監督の『家族会議』に主演。東京と大阪の株屋の商戦を背景にしたメロドラマで、佐分利は東京の株屋の若主人を演じ、素朴かつ意志的な彼の性格そのままに、落ちついた率直な演技でこれを適役とした[4]。これで注目された佐分利は、島津監督の『男性対女性』、野村浩将監督の『人妻椿』などで人気を伸ばし、五所監督の『新道 前後篇』で上原謙、佐野周二と共演してからはこの二人と松竹三羽烏を結成する。翌1937年(昭和12年)1月に徳大寺伸、笠智衆らとともに幹部待遇に昇格[5]。同年の島津監督の恋愛ドラマ『婚約三羽烏』では、佐分利は地方出身、上原は山手出身、佐野は下町出身の若者を演じ、三人を目当てに女性ファンが殺到したという。 1938年(昭和13年)には徳大寺、佐野らとともに幹部に昇格する[6]。大船調メロドラマの看板俳優として活躍する一方、1939年(昭和14年)の島津監督の『兄とその妹』では、妻と妹を持つ一家の家長として誠実に生きながら会社の同僚の策動に怒りを爆発させて職を退く、やさしさと男っぽさをもった男を好演し、演技者としてすぐれた資質を見せる[4]。
来歴・人物
映画界へ
松竹時代