この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "佐倉藩"
佐倉藩(さくらはん)は、下総国印旛郡の佐倉(現在の千葉県佐倉市周辺)に置かれた藩。徳川家康の関東入国以来、佐倉地域は江戸東方の要衝として重視され[1]、一門・譜代大名が配置された。1610年に入封した土井利勝は、近世佐倉城とその城下町(現在の佐倉市中心地区)を築いた。江戸時代前期から中期にかけては幕閣の封地となり、藩主家は頻繁に交替したが、1746年に堀田氏が再封されて定着し、廃藩置県まで続いた[2]。藩史の過半を占める堀田氏の石高はおおむね11万石で、現在の千葉県域では最大の藩であった[1]。
江戸時代前期、堀田氏の最初の在封中に藩領で佐倉惣五郎事件が発生したとされる。佐倉藩は諸藩中最も多くの老中を輩出しており、佐倉城は「老中の城」とも称される[1]。
歴史.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}小見川東金大網船橋千葉寒川公津佐倉←本佐倉 関連地図(千葉県)[注釈 1]
前史:戦国期の佐倉地域詳細は「本佐倉城」を参照
室町時代後期、下総千葉氏は印幡浦(現在の印旛沼。中世には香取海と結ばれていた)に面した水陸交通の要衝である下総国印旛郡印東荘佐倉に拠点を移した[3]。中世に「佐倉」と称されたのは現在の印旛郡酒々井町本佐倉・上本佐倉から佐倉市大佐倉にかけての一帯であり[4]、将門山に本佐倉城が築かれ、城下には町場が形成されて、領国支配の中心となった[5]。
戦国時代末期、千葉氏は後北条氏に従属し、本佐倉城も後北条氏の支城となった。天正18年(1590年)、小田原征伐に際して本佐倉城は落城し、千葉氏も没落した。 天正18年(1590年)、関東に入国した徳川家康は、各地に諸将を配置した。ただし佐倉地域については諸説がある。 文禄2年(1593年)、徳川家康は5男の武田信吉を佐倉に4万石で配置する。事典類によってはここからを「佐倉藩」と扱う[9][10]。慶長7年(1602年)に信吉が常陸国水戸藩に移ると、6男の松平忠輝が5万石で入るが、翌慶長8年(1603年)に信濃国川中島へ転封した。忠輝が佐倉の領主であったのはわずか40日であった。 慶長11年(1606年)小笠原吉次が尾張国犬山藩から入る。以後、佐倉藩は譜代大名の藩として続くことになる。小笠原吉次は慶長13年(1608年)常陸国笠間藩へ移封した。 土井利勝によって近世佐倉城が築城される以前、「佐倉」地域の支配拠点がどこにあったのかについては、以下のような説があるもののはっきりしない。 慶長15年(1610年)1月、下総国香取郡の小見川藩から土井利勝が3万2000石で入った。利勝は同年12月に徳川秀忠付の老中となる。 利勝は、慶長16年(1611年)より7年間をかけて、鹿島台に近世城郭としての佐倉城を築城した[注釈 4]。佐倉城の周辺には城下町が形成された[1]。 土井利勝は幕閣の重鎮として累進を重ねて随時加増され、寛永2年には14万2千石を領するに至る(歴代佐倉藩主で最大石高)[17]。利勝は、寛永10年(1633年)に下総国古河藩へ転出した。 寛永10年(1633年)、豊後国日田藩より石川忠総が7万石で入り、翌寛永11年(1634年)に近江国膳所藩へ移封。 寛永12年(1635年)に摂津国高槻藩から松平家信(形原松平家)が4万石で入った。寛永15年、松平康信が家督を継承した際、弟の氏信・信忠 寛永19年(1642年)、信濃国松本藩から老中堀田正盛が11万石で入るが、慶安4年(1651年)に3代将軍・徳川家光に殉死。子の堀田正信は万治3年(1660年)、幕政に不満を抱き、佐倉に無断帰城したため、改易除封。正信の時代には「農民の窮状を将軍に直訴して処刑された」義民佐倉惣五郎の事件があったとされるが、事実として確認できる事項は少ない(公津村の「惣五郎」という有力農民が何らかの理由で処刑され、その後、堀田氏の改易と「惣五郎の祟り」を結びつける伝承が生じたことは確認される。佐倉惣五郎参照)。このほか堀田氏の領国では寛政20年(1643年)に「農民の窮乏を救うため藩の米蔵を破り自害した」東金の義人大多和四郎右衛門
近世佐倉城築城以前
久野宗能が1万3000石で入封したとの説[6]。
三浦義次(三浦重成)[注釈 2]が佐倉に1万石で入封したとする説[2][8][注釈 3]。下総三浦藩参照。
本佐倉城に置かれたという説。『国指定史跡ガイド』は、本佐倉城は千葉氏改易後に徳川氏によって接収され、その後は佐倉藩の藩庁が置かれたと記す[11]。『日本の城がわかる事典』は、徳川氏による接収後一時は廃城とされたものの、小笠原吉次・土井利勝が本佐倉城に入って再興され、佐倉城への藩庁移転と一国一城令により廃城されたと記す[12]。
本佐倉に陣屋が置かれたとする説[13]。
大堀陣屋(酒々井町上本佐倉、佐倉市大佐倉字北大堀)と特定する説[5]。地元には武田信吉が建設した館との伝承があり、「万千代殿屋敷」(万千代は武田信吉の幼名)との名も伝えられている[5]。柴田(1986)によれば、大堀陣屋は千葉氏滅亡後に入封した徳川家臣(三浦義次や武田信吉)が本佐倉城を廃して本拠を移したが、慶長8年(1603年)に廃されたとしている[14]。「本佐倉北大堀遺跡」として発掘調査が行われているが、17世紀初頭以前にさかのぼる遺物が出土している[15]。16世紀には既に使用されていたとみられ[16]本佐倉城に対する居館の可能性もある[15]。
近世佐倉城の地点にあった鹿島城(鹿島台城)に置かれたとする説。近世佐倉城のある地点には、かつて千葉氏も築城を試みた。千葉親胤が鹿島幹胤に築城を命じたが中断(ここから「鹿島台」と呼ばれるという)、その後千葉邦胤も築城を試みたが未完成のまま頓挫したという。『角川日本地名大辞典』によれば、小笠原吉次は鹿島城に入ったという[17]。
土井利勝と近世佐倉城築城土井利勝
「老中の城」
寛文元年(1661年)、上野国館林藩から松平乗久(大給松平家)が入るが、延宝6年(1678年)に肥前国唐津藩へ移封。
同年、松平乗久と入れ替わる形で、肥前国唐津から老中大久保忠朝が8万3000石で入る。1680年(延宝8年)に1万石の加増を受け、1681年(天和元年)に忠朝は老中首座となる。なお、忠朝は1684年(貞享元年)に江戸城内で大老堀田正俊(堀田正盛の子で、正信の弟)の殺害事件に遭遇し、居合わせた阿部正武・戸田忠昌らとともに加害者稲葉正休を討っている。貞享3年(1686年)に相模国小田原藩へ移封。
同年、武蔵国岩槻藩から老中戸田忠昌が6万1000石で入封。元禄7年に1万石加増されて7万1000石となる。元禄12年、跡を継いだ忠真は弟の忠章に3200石(これに加え新田3800石)を分知し、佐倉藩6万7800石となる[17]。忠真は元禄14年(1701年)、越後国高田藩へ移封。
戸田忠真と入れ替わりで、越後国高田藩から新任の老中稲葉正往が10万2000石で入封。正往の命を受けて、藩儒磯辺昌言が地域の歴史・地理書『総葉概録』『佐倉風土記』を編纂している。次代・稲葉正知は享保8年(1723年)に山城国淀藩へ移封。
稲葉正知と入れ替わりで、山城国淀藩から新任老中松平乗邑(大給松平家。乗久の孫)が6万石で入った。乗邑は享保の改革を推進した老中として知られる(のちに老中首座、勝手掛老中)。延享2年(1745年)、徳川家重が将軍に就任すると乗邑は老中を罷免され、減封を受けた上に隠居を命じられた。乗邑の子の乗祐が家督を継いだが延享3年(1746年)に出羽国山形藩へ移封された。 延享3年(1746年)、松平乗祐と入れ替わる形で、出羽国山形藩から老中堀田正亮(正信の弟である正俊の孫)が10万石で入封。その後は幕末まで堀田家の支配で定着した。佐倉藩の歴史においては、正亮以後の堀田氏を「後期堀田氏」とも称する[17]。 正亮は老中首座をつとめ、宝暦10年に1万石が加増されて11万石となった。このうち4万石程度は出羽国村山郡の所領であり、延享4年(1747年)に柏倉陣屋
後期堀田氏時代
堀田正亮は、前期堀田氏の改易と結びつける伝承が生じていた佐倉惣五郎父子の慰霊を行い、以後の藩主も継承した。佐倉藩堀田家が公認することにより、佐倉惣五郎の義民伝説が発展することになった。
2代藩主堀田正順は、奏者番・寺社奉行・大坂城代・京都所司代などの要職を歴任した[17]。一方藩財政はこの頃から窮状を見せるようになった[17]。天明3年(1783年)には、浅間山の噴火や利根川の洪水を背景として、城付領で年貢減免などを求める百姓一揆が発生した[17]。寛政4年(1792年)、藩校として学問所(のちに温故堂、成徳書院などに改称)を設立した。
第4代藩主堀田正愛は、勝手方主役向藤左衛門を推進者として、「三ツ割の法」など財政改革を中心とする藩政改革を進めた[17]。